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韓国の国土と人口
1. 国土
アジア大陸の東北から太平洋に向けて伸びる22万平方キロの半島。
それは今日、南北合わせて7,000万近い韓民族の国土である。
北緯42度、すなわち函館とほぼ同じ緯度線上に位置する韓半島の
最高峰2,744メトルの白頭山は、韓民族の聖山として崇められている。
頂上の火口湖の天地から西に流れる790キロの鴨録江を挟んで中国の
遼寧、吉林省と接し、東に流れ下る521キロの豆満江は、わずか100
四年前まで韓民族の領土だった間島地方との境を流れ、河口近くでは
ロシア沿海州の南端と国境を接している。
西は黄海を隔てて山東半島を望み、東は東海のかたなに日本列島が
連なっている。済州島沖合いの馬羅島の南には東支那海と太平洋が
広がっている。
人工衛星がとらえた写真や極東アジアを見るとき、韓半島の地形にまつわる
さまざまな比喩が思い出される。アジア大陸の北東に突き出している韓半島は
黄金細工の新羅王梶Eに垂れ下がっているひすいの曲玉にたとえられたことも
あれば、日本列島に背を向けて大陸にすがりついている臆病で無力なゥサギに
見立てられたこともあり、朝鮮王朝時代の民画では、満州大陸に向かって
跳びかかるような構えで咆哮する猛虎像となっている。さらにある人は
韓半島を大陸の乳首と見立て、日本列島はその乳首を吸いつこうとする
乳飲み児にたとえている。
韓半島全体の面積は222,154平方キロで英国やルーマニアとほぼ同じ
面積である。林野など山岳地帯が65.1%、耕地20.8%、その他14.1%となっている。
山岳地帯といっても標高1,000メートル前後のさして険しくない山であって、
植林や林産物栽培に適しており、広大な岩場や砂漠などはまったくといってなく、
交通、水利の便が図られているので、国土の利用率は極めて高く、火山、地震の
恐れもないうえ、台風や洪水など自然災害に見舞われることも少ないので、
韓民族にとっては天恵のすばらしい国土となっている。
2. 気候
韓国の気候は、日本と同じく東アジア・モンスーン気候帯に属しているが、
島国の日本とは違って大陸と地続きになっている上、日本より北寄りに位置しており、
日本の本州よりは寒い大陸性気候である。しかし、日本と同様、四季の移り変わりに
つれて、山河と平野は美しくその装いを変える住みよい国である。
韓半島最南端の島・済州島では、3月末にはすでに自生のサクラが満開となる。
韓ラ山の中腹には緑濃い山肌をくれないに彩るツツジの群落が今を盛りと咲き匂い、
裾野から浜辺にかけては青々と涙打つ麦畑と黄一色の菜の花畑が鮮やかなまだらを
織り成してひろがる。
しかし韓国の春は惜しむ間もなく過ぎ去り、青葉の茂る夏が来る。日増しに色濃く
なる森に囲まれた谷間を流れる雪解けの水が尽きかける6月半ばを過ぎると梅雨が始まる。
年間降水量の半分近い降水量を伴う梅雨が、7月末頃にあけると、全国各地のダムには
満々と水が貯えられ、広い川幅いっぱいに流れ下る豊かな水は、コメを始め6万トンを
越す食糧作物を育てる150万ヘクタールの農耕地を潤おし、4,863キロワットアワーの
水力発電、そしてめざましい成長を重ねている工業用水と生活用水になっている。
梅雨明けの7月下旬から8月末までは夏の盛りであり、各級学校と企業・官公署の夏休みの
シーズンとなる。35度Cを越す猛暑の日が続くと山の谷間や海辺のビーチは、バカンスを
楽しむ人たちで混み合う。
9月半ばになるとコバルト・ブルーに澄みわたる青空の下、色とりどりに色づく紅葉が
山々を彩り、さわやかな秋風にそよぐ白いススキが高原と野原を埋め尽くす。
日本に比べると梅雨どきや夏の盛りにもジメジメした蒸し暑さは感じられず、とりわけ
秋はさわやかなことこのうえない。
韓国最大の節日である旧暦8月15日の秋夕は、墓参りを兼ねた収穫を祝う祭りの日でもあり、
全国各地で民俗ノリが繰り広げられる。秋夕が過ぎて11月に差しかかると、
シベリア大陸から吹き寄せる寒風と降り積もる雪に閉ざされる冬が始まる。
韓国の冬は厳しく長い。ソゥルでも氷点下20度まで気温が下がる時もある。しかしゥィンター
スポーツを好む人たちは、スキーやスケート、雪山登山に夢中になる。
3. 住民と人口
韓国人の先祖は、遥かな太古の昔、パミール高原一帯から狩猟・遊牧に携わりながら
東方に向けて移動を続け、黄河と遼河の流域からアムール川流域と、ロシアの沿海州、
韓半島一帯にかけて相前後定住することになった北方モンゴリアンの本流と自負している。
現在は、東西冷戦とイデオロギー対決によって国土と民族が、50年間も分断された状態と
なっているが、遠からず韓民族特有の粘り強さと勇気とユーモアに富むおおらかな気性、
そして世界のいかなる民族よりも血の結びつきを大切にする伝統と同質性によって、
統一を実現するに違いない。
1994年末の韓国の人口は約4,450万人と推計されており、人口密度は1平方キロあたり
447となっている。さらに北韓人口は2,250万人と推定され、南北合わせるとき6,800万人、
人口密度は1平方キロあたり332となる。韓国だけで見ると、オランダの366、日本の327人、
ベルギー323人を断然引き離した世界最高の人口密度である。南北合わせた332という数字は
オランダに次いで2位にランクされることになる。
さらに本国在住人口の7.5%にのぼる500万人の海外在住同胞を合わせるとき、今日の韓民族は
7,000万人を超えることになるが7.5%にのぼる海外在住同胞の比率も、イスラエルと並んで
世界トップクラスである。
韓国の人口増加率は、1960年初には3%という爆発的な伸びを示していたが、政府の適切な
指導啓蒙と国民の意識改革によって60年代末には2%台を割り、20年前の1974年には1.74%、
1984年には1.24%、1994年末現在は0.90%と米国並みになっているが、まだまだ日本の0.4%台
までは追い付けない現状である。
人口の男女性比は101.4と好ましい比率を示しているが、年齢別人口構成を見ると、
これまでとは違って15-19歳の10.3%をピークに現象趨勢を示し、0-4歳は7.6%にすぎない。
1994年末現在、25歳以下の若年人口が42,8%、15歳以上の経済活動人口は1973年の1,949万人
から1994年末には3,387.2万人に増え、わずか20年の間に60%を越す1,400万人以上の若手の
労働力を供給して、韓国の目覚しい経済成長を支えた。現在の総人口の経済活動参加率は
60.9%。失業率は2,4%と、ホンコン・台湾の1%台に次いで日本・シンガポールと同様2%台に
なっている。
しかし韓国も近年には高齢化社会に移行しており、60歳以上の人口比が1970年の5.1%から
1994年末には8.7%に増えている。
もう一つ韓国人口の目立った特色は、急激な都市人口の増大である。
1990年度センサスによると、首都ソゥルの人口は、10,612万人と総人口の24.4%を占め、
韓国人の四分の一が首都市民となっている。そのほか、釜山・大邱・仁川・光州・大田の
5大都市の人口だけを合わせても1,000万人を超し、都市化率は1990年の74.4%から2000年には
80.6%に登る見通しである。
このような都市化の進展につれて都市地域の住宅、交通、給排水問題など、さまざまな
問題が持ち上がり、農村地域は過疎化現象が目立つなど、国土の均衡発展に差し支えが
多いので、政府は公共機関の地方への移転を通じて都市人口の過密化を阻止するなど、
長期的見通しの下に対策を講じている。
韓国には少数民族問題はまったくない。今世紀初めから韓国に移住してきた中国華僑は、
3世・4世まで含めて約3万人前後がほとんど大都市に定住しており、中華料理店を始め
貿易・医療など収益の高い職業に携わりながら豊かに暮らしている。
韓国の交通と通信
過去30年間のめざましい経済成長に伴い、韓国の国内交通手段も急激に
強化・拡充された。そして輸送量も、経済成長率を上回るペースで
増大している。
国内旅客輸送量の場合、1966年には16億5,600万人だったが
1994年には137億人に増えている。
経済成長による所得の増大と交通手段の拡充・強化につれて、旅行ブームに
火がついた。四季それぞれに美しい装いを変える全国各地の観光リゾートは
観光客であふれており、さらにサマー・バカンス期間中や秋夕とソルナル
(旧正月)など韓国の伝統節日の休日前後の期間中には、海や山、故郷へ帰る
帰省客で鉄道・高速道路、空路、海路もそれこそラッシュになる。
1. 地下鉄
一日平均380万人の乗客を輸送するソゥルの地下鉄は、世界第8位の施設を
誇っている。5路線総延長183.6キロメートルのソゥルの地下鉄は、ソゥルの
一日交通量の30%以上をこなしている。7.8?の1号線は1974年8月15日に
開通した。1号線は国鉄と接続して北は郊外の議政府市から西の仁川広域市と
水原市までを結び、ソゥルの都心を東西に走る。2号線は、漢江の南と北の
住居地区と商業地区を結ぶ循環線であり、総延長56.9?に48の地下鉄駅が
もうけられている。3号線は、35.2?、4号線は31.7?で、それぞれ西北から
東南へ、東北から南へとソゥルの都心で交差しながらソゥルのベット・タゥンと
都心を結んでいる。1997年開通された5号線は、ソゥルの東北から西南に伸びる
52?のルートである。
韓国第二の都市・釜山広域市の地下鉄は、32.5?に34の駅があり、釜山の
ベット・タゥンと都心を結んでいる。
通常ソゥルが5分おき、釜山は5.5分おきに地下鉄の電車を運行しているが、
ラッシュアワーには3分おきに運行間隔を縮めている。
ソゥルと釜山の地下鉄システムは、最新の施設と設備を備えており、各駅は
それぞれ駅名にふさわしい伝統的なモチーフと現代的なコンセプトが
組み合わされたデザインで内装が施されている。
さらに都心の主要駅や乗換駅の構内には、地下商店街が設けられて、
ギフト・ショップや名品店が乗降客のショッピングに便利を図っている。
2. 鉄道
韓国の鉄道の総延長は1994年現在、6,600?にのぼっている。2,900両の客車と
16,000両の貨車が全国各地に旅客と貨物を輸送している。
1994年度の旅客輸送実績は、延べ7億2,900万人である。列車の安全運行を
確保するため列車集中制御装置(CTC)の信号通信施設がソゥルー釜山間の路線
及び太白・中央線の路線838?の144駅に設けられている。また、1977年には
京釜線(ソゥルー釜山間)に極超短波通信装置が架設された。
全国各地の主要都市と観光地、商工業の要地はもとより、全国を縦横に結ぶ
碁盤の目のような鉄道路線には、超特急のセマゥル号、特急のムグンファ号、
准特急の統一号と緩行・普通列車のビトウルギ号が旅客を安全かつ快適に
輸送している。
超特急のセマゥル号にはコンパートメントの2人室と家族室がもうけられており、
ムグンファ号と統一号には特室の太極室と食堂車、寝台車がついている。
旅客の増加によって渋滞する高速道路とは違って、鉄道は安全快適なうえ、渋滞
がないので鉄道を利用する傾向が強まっている。これに伴い、国営の鉄道庁は、
ますます旅客に対するサービスの改善に努めている。このようなサービスの中のは
日本のJRや韓日間を結ぶフェリーと提携して一枚のチケットで日本の新幹線と韓日
フェリー、韓国の鉄道を乗り継ぐシステムの韓日共同チケット制度をはじめ、新婚
夫婦のための新婚列車、観光地行きの観光列車、温泉と観光を兼ねた温泉列車とい
ったような“旅行商品”を発売している。
韓国が先進産業国をめざして発展して行くにつれて、鉄道輸送業務の効率化を実現
させるための新しい機構の設立が必要となり、政府は国営鉄道を公社に切り換える
計画を進めている。
1992年6月30日、ソゥルー釜山間の超高速鉄道の建設工事が始められた。これが完成
するとソゥルー釜山間をわずか1時間40分で走破し、国内の大部分は半日の生活圏内
に入ることになる。こうして均衡のとれた地域の開発によって深刻な交通渋滞も緩和
され、住みよい韓国をつくるのである。
3. 高速道路
今日、韓国の高速道路は、ソゥルと全国各地の都市や農村を一日で結ぶようになって
いる。
ソゥル〜仁川間の高速道路29.5キロメートルが1968年に開通したあと、ひきつづき1970
年にはソゥルと釜山間の京釜高速道路428kmが開通し、韓国の経済成長と輸送交通の近代
化を支えるインフラストラクチャーの整備・拡充をめざして歴史的な一歩を踏み出した。
京釜高速道路は、ソゥルから水原・天安・大田・亀尾・大邱・慶州を経由して釜山に至る
ルートであるが、この道路は主要な産業都市や観光名所と接しており、地域社会の発展に
つくしている。京釜高速道路は、当初2車線であったが、1981年には4車線に拡充された。
ひきつづき大田と光州を結ぶ湖南高速道路、さらに光州と大邱を結ぶ88高速道路、光州と
馬山を結ぶ南海高速道路、馬山・釜山間の釜馬高速道路、大邱・馬山の邱馬高速道路、
ソゥル・大田間を結ぶ、ソゥル・江陵間の嶺東高速道路が開通した。1994年現在は、1,650
kmにのぼる。
4. 自動車
1994年現在、韓国の自動車台数は、760万台にのぼる。車種別に見ると、乗用車が66.9%,
バスが7.7%、貨物自動車は22.1%となっている。
全国の運輸企業5,890社のうち、市内バスは400社、高速バス10社、タクシー1,850社など
である。
ソゥル市内の交通は、金浦国際空港と市内の主要ホテルを結ぶリムジンのシャトル・バス
2路線のほか、定員制の座席バスと一般のバスがある。座席バスや一般バスは、コースを
表示する番号と主要経由地を張り出してはいるが、路線の数があまり多く込み入っている
ので、ソゥル市内でさえ、通い慣れたコース以外のところへ行く時には戸惑うことが多い。
ソゥルのタクシーは、模範タクシーと中型88タクシー、一般タクシーの3種類に分けられ
ている。模範タクシーは、走行メーター料金のほかにコール・チャージがつくので一般
タクシーの3培近い料金となる。88タクシーは初乗り1,000ゥォンであり、午後11時以降
翌日午前4時までは深夜割り増し料金として20%が加算される。
高速バス10社は、2,500台のバスでもって全国主要都市を一日生活圏に結んでいる。
5. 航空業界
韓国は、アジア各国の主要都市はもとより全世界の都市と国際航空路線を通じて密接に結
びついている。
ソゥルが国際航空業界で一躍重要な位置を占めるようになったのは、1988年のソゥル・オ
リンピックのホスト・シティの決まってからのことである。
韓国の空の玄関、金浦国際空港からは、北アメリカ・ヨーロッパ・北アフリカ・中東そして
アジアの主要都市に向かう航空機が毎週763便以上飛び発っている。
韓国はアジア太平洋地域21か国・中東9か国・アフリカ8か国・ヨーロッパ19か国・南北
アメリカ6か国の合計63か国と航空協定を結んでいる。
1969年、政府が大韓航空(KAL)の民営化に踏み切った当時、KALはわずか2機のジェット
推進旅客機を保有していたに過ぎなかった。しかし、その後、大韓航空は、二度にわたった
惨劇に見舞われながらもめざましい成長を重ね、今日、大韓航空の旅客機と貨物機の保有数
は100機を越すほどとなっている。ここ20年の間、大韓航空は、旅客と貨物の輸送実績におい
て年平均12%のめざましい成長を持続させてきた。
大韓航空と、1988年に就航した韓国第二の民間航空会社、国際線旅客輸送実績は、1,300万
人に達している。
ここ10年の間、政府は国際航空業界での韓国の急激なシェア拡大に対応するため、国際航空
施設の拡大に大幅の投資を行った。1980年に新築した金浦空港の国際線ターミナルは、年間
480万人の乗客と32万トンの貨物をさばく能力を備えていたが、1988年のソゥル・オリンピック
の備えて4,000メートルの新しい滑走路うぃ設け、1994年、金浦国際空港は年間1,100万人の
乗客と108万トンの貨物をさばくことができた。
釜山の空の玄関・金海航空と済州島の済州空港それに光州空港は、金浦国際空港に次ぐ韓国
の4国際空港である。金浦空港と同じく金海と済州空港も、国際空港として十分な施設とサポ
ート・システムを備えている。ジャンボジェット旅客機が離着陸する3,000メートルの滑走路
が済州空港に設けられたのは1982年のことである。済州島を国際的な観光リゾートに発展させ
るため、政府は済州空港の拡充に果敢な投資を行った。1991年5月、ソ連のゴルバチョフ大統
領が蘆泰愚大統領との首脳会談に臨むため済州島を訪問したことがあり、済州島は世界の注目
を集めた。
このほか、ソ連をはじめとする東ヨーロッパ諸国との修交に次いで、中国との国交も数立され
たことから、今後爆発的に増大するに違いない航空交通量に対応するため、ソゥル近い仁川港
外の永宗島と竜遊島に挟まれた干瀉を埋め立てて新しい国際空港の建設に着工した。1999年に
完成し、2000年にオープンするこのマンモス新空港は、最終的には年間一億人の旅客と700万
トンの貨物を捌くことになる。
現在、韓国と日本との間では、韓国の大韓航空とアシアナ航空の2社、日本は日本航空(JAL)
と全日空(ANA)、さらに日本エアーシステム(JAS)が、ソゥル(金浦)・釜山(金海)・済州と東京
の成田、大阪の伊丹、名古屋・福岡・新潟・熊本・小松・長崎・札幌・仙台・鹿児島・の各空港
に乗り入れている。
このほか、古手のノースゥエスト(NWA)・CPA・ルフトハンザをはじめエールフランス(AFR)
・BAW・CAL・COA・DAL・FOX・GIA・KLM・MAS・NCA・SIA・SWR・THA・UAK・中国民航とロシアの
アエロフロート(AFL)がオン・ライン・オフィスをオープンしており、さらにAir
Indiaを始め
とする42社がオン・ライン・オフィスを設けているなど、合計65社がソゥルにオフィスを設けて
いる。
大韓航空とアシアナ航空の2社は国内の14主要都市との間を定期的に運行している。その主要
都市はソゥル・釜山・済州・大邱・束草・光州・晋州・麗水・蔚山・木浦・群山・江陵・醴泉・
浦項の都市である。1994年現在、2社の旅客輸送実績は国内線1,800万人に上っている。
6. 海運業界
韓国のコンテナー船は、北米、南米、ヨーロッパ、オーストラリア、さらには中東とアフリカの
定期航路をひっきりなしに往復している。同時に外国の旅客船や貨物船も韓国の各港湾に頻繁に
寄港している。
韓国政府の海運港湾庁は、1976年、海運産業の振興発展を図るため設立された。政府の集中的な
支援育成と民間企業の努力が実って1994年現在、韓国の保有船舶は、1,000万グロストン近くに
増大した。
1995年現在、韓国の海運会社の貨物運送実績は年間4億7,000万トンに上っている。これほどの
貨物を滞りなく運送するためには、1,000万グロストンの船舶が必要である。こうして、韓国の
造船工業は、この先韓国の貨物運送のための船舶拡大のためにも、その拡張・強化が求められて
いる。これにつれて韓国の港湾の荷役能力の拡充強化も欠かせなくなっている。
7. 情報通信
ソゥルと西海岸の港町・仁川との間に、30?の電信線が架設され、漢城電報総局が開局したのは
1885年9月28日のことである。これが韓国での近代的な通信サービスの始まりである。それは
数千年の間、遠距離通信手段となってきた烽燧制度や早馬制度に代わるものだった。最初の電話は
1986年、徳寿宮御殿と政府各部処間に設置された。同年2月米国人との共同経営による
漢城電気会社が、電車・電気・電話事業に乗り出したのである。1902年3月には、ソゥルと仁川に
電話線が開通し、1903年には釜山との間にも電話が開通した。
日本による植民統治から開放された1945年8月15日以前までは、磁石式単式交換機の電話がもっぱら
官用と日本人用に普及していただけである。
開放後、これら電話施設はそのまま韓国に引き渡されたが、1950年から1953年までの3年余に渡った
韓国戦争によって悲惨な被害を被った。
韓国が近代的な電話施設の拡充に乗り出したのは1961年から始まった第一次経済開発5か年計画以来
のことである。しかし1980年代始めまでは電話の施設拡張は需要に追い付かず1979年末の電話は
わずか24万台、100人当たり6.3台に過ぎなかった。しかも公衆電話や国際電話もすべてオペレーター
を通じなければならない手動交換式だったので、その不便・非能率ははなはだしかった。
1982年、電信電話事業は、逓信部傘下に新しく設立された韓国電気通信公社(今日の韓国通信)に
移管されて以来、めざましい成長・発展を遂げ、積極的な研究開発投資の結果、1986年にはTDX-1と
称する電子交換システンを備えて、世界10大国に仲間入り、今はTDX交換機を世界各国に輸出までして
いる。これにつれて韓国は年間100万回線の電話を増設し、1987年には電話普及台数が1,000万台を
越え、ほとんどの世帯に電話が行き渡るようになった。それと同時に国際ダイヤル通話(IDS)サービス
も電話加入者全員に行われることになった。
1994年現在、電話回線数は2,100万線、電話加入者は1,760万人を数えるまでになった。これで国民
100人当たり39.6台に増えた上、すべての電話が自動交換システム切り換えられた。2001年までには
電話回線数は2,823万回線に増大し、電話の普及率は世界の先進国レベルと同じ100人当たり51台になる。
DACOM(韓国データ通信)も情報化時代の到来に備えて、1982年に設立された。DACOMは電子メール・
データベース・ビデオテックス・VANなどのサービスを行っているほか第2国際通話サービスまで担当して
いる。さらに1988年からDACOMはコンピュータ・ネットワークを通じて世界54か国とパケット交換
システム(最新情報通信網)によるサービスに乗り出し、国内主要都市にもサービスを提供している。
国内データベース・サービスはさらに韓国産業技術情報研究院(KINITI)・韓国証券電算株式会社
(COSCOM)などによる株式情報サービスを始めとして、公共と民間企業によるサービスが行われている。
1984年には、韓国移動通信が設立されて、自動車電話(カーホン)と無線呼出電話(ビーパ)のサービス
に乗り出した。1995年3月31日現在、韓国では110万5,671人の無線呼出電話加入者(ビーパ)がいり。
1994年2月25日、政府は第二移動通信の新世紀移動通信の設立を認可した。浦項製鉄が主体となって
鮮京グループとコンソーシアムを組んでスタートした同社は、韓国移動通信との果敢な研究開発投資
を通じた新製品・新技術の開発競争、さらに顧客に対する善意のサービス競争を通じて国際競争力を
強化し、通信分野の市場開放に備えることになる。
韓国の移動通信業界が目指しているのは、より高度に洗練されたパーソナル通信ネットワーク(PCN)
システムを発展させ、各個人が独自固有ナンバーの移動携帯電話を利用して、いつどくでも世界の
いたるところと通話することができる水準にレベル・アップすることである。
国際電話は、3か所の通信衛星地球ステーションとマイクロゥェーブ通信システムそれに韓日間の
海底同軸ケーブルに頼っている。それは近い将来、衛生通信地球ステーションの増設とグローバル
光通信の実用化によって一段と強化されるはずである。
通信施設のめざましい拡充に伴って、デジタル統合サービス・ネットワーク(ISDN)システム構築計画
が情報通信ネットワークのレベル・アップと情報化社会の実現を繰り上げるため煮詰められている。
さまざまなデータ通信サービスの発展に伴って交換設備に劣らず端末機器のデジタル化も進み、
光通信の応用増大とデジタル交換設備への切り換えもますます進展している。
韓国の新聞と放送
1. 新聞
朝鮮王朝時代にも《朝報》という新聞みたいなものがあって朝廷の重要議決事項と全国
官吏の任免内容などを発表したことがあるが、政府公認の近代的な新聞が発行されたのは
1896年のことである。アメリカ留学帰りの徐載弼は、国民大衆の啓蒙が急に要するとみて、
隔日刊タブロイド版4ページの《独立新聞》を発行したが、3ページはハングル、最後の
1ページは英文で編集された。
同年4月7日付きの《独立新聞》創刊号の社説では「吾人は全韓国人の代弁者たらんとする
次第である。吾人は政府のなすことをしらしめ、かつ政府には人民が如何に暮らしているか
を伝えるであろう」とうたっている。これは今日ではごく当たり前のことに過ぎないが、
一世紀前の昔、まだ王朝の権威主義的統治下にあった同時としては、きわめて勇気のある
宣言だったといえる。この社説は、近代韓国の歴史のもっとも波乱に満ちた過渡期に
あいついで現れる多数の新聞の社説の方向をあらかじめ設定するものとなった。
その後の韓国の新聞は、韓国人の民族主義的代義を確固と護持しながら、一方では20世紀
の世界の目まぐるしい変化に目を開く過程で、大なる挑戦に直面しなければならなかった。
とりわけ1910年から1945年までの日本による過酷な植民統治の下ではあいつぐ弾圧と統制
にもかかわらず、民族精神の鼓吹と育成のため不屈の闘争と抵抗に終始した。
1945年の開放直後は、共産主義者グループの宣伝扇動に立ち向かって自由民主主義を
守り抜くために堂々と論陣を張るとともに、共産主義オルグによるストライキとサボタージ
にも立ち向かわなければならなかった。
さらに韓国の新聞は1948年の大韓民国建国後には、40年近い長年月に渡って、独裁権力と
経済の不正腐敗を相手とって国民の権益と福利を守るため不撓不屈の闘争を繰り広げた。
国民に知るべき権利を全面的に保証するための一連の民主改革作業が進められ、1987年の
時点でわずか26紙に過ぎなかった日刊新聞は、1994年末現在、101種に増え、週刊誌・月刊誌
は5,937種に達している。隔月刊・季刊誌それに非商業的な定期刊行物なども2,659種にのぼり、
現在、韓国の新聞と定期刊行物は約8,724種にのぼるようになった。
韓国の日刊新聞のうち、朝鮮日報と東亜日報はもっとも歴史が古い。両紙は、1919年、抗日
独立運動が全国的に繰り広げられたあと、日本の植民統治当局がその抑圧をやや緩め始めた
1920年に創刊された。以来、今日まで2大民族誌としてその責務を果たしてきたのである。
今日、この両紙のほかに韓国日報・中央日報・京郷新聞・ソゥル新聞が6大全国紙として
全国をカバーしており、釜山・大邱・全州・光州・仁川など、各地方の大都市にもそれぞれ
地方紙が地元のニュースにゥェートを入れて発行されている。
1991年から地方自治の実施につれて各議会の新聞が各地で発行されるようになった。
新聞の発行部数は着実に増加しているが、これまでのところ新聞・雑誌の各社は、その
発行部数を率直に公開するのを差し控えてきた。それは一種の企業機密として伏せられ、
隠されたまま公称発行部数と実際の発行部数との間にはかなりの開きがあった。にもかかわらず
おおよその発行部数はそれなりに推定されてきたのである。しかし、1989年5月31日、韓国でも
KABC(KoreaAuditBureauofCirculation)が発足を見て、広告メディアとなる新聞・雑誌など
定期刊行物の正確・公正な発行部数が公開されることになった。
韓国の日刊新聞社の収入は、購読料30%に広告料70%の割合となっており、1992年の新聞広告料
収入は1兆8,000億ゥォン(22億$)で広告収入総額の44.1%を占めている。
今日の韓国の日刊新聞社は先進諸国と同様に近代的なマンモス企業となっている。大手新聞各社
は軒並みに近代的な高層ビルの社屋に最新鋭の全自動グラビヤ輪転印刷機を備えており、そのうえ、
主婦と青少年学生を主要対象とする社会教育教養プログラムを講習させる文化センターを運営して
いる。さらに興行的性格の各種芸術公演を主催するほか、スポーツ・学術セミナーなども主催・後援
しており、さらに系列社を通じてテレビ・ラジオ放送と印刷・出版業を運営するだけでなく
旅行代理店などまで幅広く手がけるなど多角経営に乗り出している。
2. 通信社
韓国最初の通信社は、1945年、韓国が日本の植民統治から開放されると同時に設立された
「開放通信社」が草分けである。その後10余年間、多数の通信社があいついで設立されたが、
そのほとんどは経験不足と財政難などによって短命に終わった。しかし、1945年12月に設立された
合同通信社と1953年に設立された東洋通信社の2社は、1970年代末まで韓国の2大総合通信社として
堅実な成長発展の道をたどってきたが、1980年12月19日、今日の連合通信社として統合された。
連合通信社(United
News)は、発足以来、国内外の取材・報道網を大幅に拡充させた。国内ニュース
取材のために・ソウル本社に330余人のスタップと記者が詰めており、さらに115余人の通信員が全国
各地に駐在している。また、海外ニュースの取材のために、ヨーロッパ、北米、中東、東南アジアの
各地に13か所の海外支局が設けられている。
さらに連合通信社は、AP・UPI・ロイター・AFT・時事・共同・タス・新華社など全世界47余の
外国通信社と業務提携契約を結んでおり、グロバール時代のニュースを伝えている。国内で500余社に
のぼる新聞社・機関団体にニュースを流しており、海外では110社にのぼる提携先に毎日8,000単語を
越えるニュースを通信衛星中継を通じて送信している。
3. 昔のラジオ放送
韓国最初のラジオ放送は、2年間にわたった試験放送のあと、1927年2月16日に開局した京城放送局を
始めとするが、それは1945年8月15日の開放まで、もっぱら日本によって運営されていた。
解放後、KBSとしてスタートした韓国のラジオ放送は、初めて韓国語による政治・経済・社会・文化
など全般的なニュースを流し、演芸・娯楽コメディ番組などを盛り込んだ楽しいものとなった。
韓国戦争休戦翌年の1954年には、最初の民間放送であるキリスト教放送(CBS)が開局して、ニュースや
娯楽番組と同時に教育、宗教番組を流すことになった。
1956年12月には、もう一つのキリスト教系放送の極東放送(FEB)が仁川に設立されて、毎週100時間ずつ、
韓国語・英語・中国語・ロシア語による国際放送に乗り出した。
韓国最初の民間商業放送は、1959年4月、釜山に設立された釜山文化放送であり、そのあとを追って
文化放送(MBC)・東亜放送(DBS)・東洋放送(TBC)がソウルに設立された。
1961年12月、KLKVのコール・サインで放送を開始したMBCは、韓国の商業ラジオ放送の発展に多大な
寄与を果たした。
韓国の大手全国紙・東亜日報社の系列会社として1963年にスタートしたDBSはソウルと中部地方をカバー
するだけだったが、同じく大手全国紙の中央日報社系列のTBCは、1964年のスタート以来、全国主要都市
に地方局を設立し、全国をカバーするネットワークとしてMBCのライバルになった。
1966年には、ソウルFM放送が韓国で初めてFM放送を開始した。さらに1970年には、ソウルの韓国文化FM
と釜山文化FM、大邱の韓国FMの3FM放送局が開局した。
米国に本部を置く非営利放送の極東放送局(FEBC)は、1972年、済州道で開局し、アジア地域向け自由・
平和・希望のメッセージを流した。
このほかにも韓国では二つの特殊放送がスタートした。1954年に放送を開始した韓国陸軍の放送局は、
韓国軍将兵とその家族向けの教育・広報・娯楽番組を流し、1950年10月にスタートした駐韓米軍のAFKNは
、駐韓米軍とその家族向けのニュース報道・特別番組、娯楽番組を英語で流した。
4. 今日のラジオ放送
1980年11月の言論統廃合措置の強行は、韓国のラジオ放送の歴史に重大な変化を引き起こした。すでに
20にのぼる地方局を擁する最大のネットワークを誇っていた公営放送のKBSは、韓国の4大民間放送局の
中でソウルの二大民放である東洋放送(TBC)東亜放送(DBS)を吸収合併し、地方の3つの民間ラジオ放送局
まで傘下に収めた。さらにKBSは、全国主要都市に19社の系列放送会社を擁する文化放送(MBC)の65%の株を
取得した。
さらに4地方局を擁するキリスト教放送(CBS)は、キリスト教宣教番組以外の放送は一切禁止となった。
ソ連・中国・モンゴルと国内むけのキリスト教宣教番組を流していた極東放送と、北韓向け宣教番組の
放送ひとすじに終始していたアジア放送の2社はさいわい生き延びた。
KBSは1953年以来、海外放送ネットワークを運営している。1975年にはインドネシア語とアラビア語放送
を開始し、1983年からはドイツ語とポルトガル語放送を流している。現在、KBSの外国放送は、英語・
フランス語・中国語・スペイン語・ロシア語・日本語を含めて10か国語による番組を海外に向けて流して
いる。それは最寄りの極東諸国をはじめとして北米・ハワイ・ヨーロッパ・東南アジア・中東さらに南米
にまで届いている。 AFKNは、
AM・FMラジオ放送とテレビ放送を駐韓米軍将兵とその家族向けに24時間、英語による1時間お
きのニュース報道とその他の娯楽番組・特集番組をサービスしている。
1980年の言論統廃合から丁度10年後の1990年、韓国の放送界には新しい変化が始まった。それまでの公営
放送システムに伴う数々の問題点を解決するために放送界のリストラが求められるようのなったのである。
放送界改革の一つは、政府の公共放送システムを補う民間放送を設立することである。
もう一つの発展は、多数の特殊専門放送局の設立だった。1990年
6月にはソウルに交通放送(TBS)が設立
され、引き続き12月には公営の教育放送(EBS)がスタートした。1991年3月にはソウルと京畿道一帯の
ソウル首都圏をカバーするニュースと商業放送専門のソウル・ラジオ・ステーション、すなわちSBS‐AMが
民間ラジオ放送会社としてスタートした。 韓国には現在FM放送
47局、短波放送1局を含めて合計107局のラジオ放送局がある。ラジオのゴールデン
・アワーは正午から午後1時までであり、人気番組はニュースと外国のポップ・ミュージックや連続ドラマ
とクラシック音楽それにバラエティーショーとスポーツである。
韓国ではテレビの全国的普及にもかかわらず、ラジオの聴取者は着実に増大している。しかし、近年の
テレビの増加と人気の高騰の影響を受けて、変化に対応できなかったラジオの機能と役割が落ち込んでいる
のも事実である。この先、ラジオが取り組むべき重要な課題は、テレビに競争を挑むことではなく、ニュー
ス・音楽・交通情報など、ラジオ独自固有の番組を開発して、全国の一般聴取者のニーズに対応していくこ
とにある。
5. テレビジョン
韓国最初のテレビ放送は、1956年、ソウルの民間商業放送局が手がけたが1959年に火事によって潰れてしま
った。
本格的なテレビ時代の開幕は、1961年12月31日を期して放送された公営KBSテレビとなる。さらに1964年12月
には、ソウルと近隣首都圏をカバーするTBCラジオの姉妹局・TBCテレビが最初の民間商業テレビ放送局として
オープンした。引き続き同年、TBCテレビの釜山支局が開局して、釜山を中心とする南部地方向けテレビ放送を
スタートした。
文化放送(株)は、1969年8月、韓国の3番目のテレビ放送局として放送を開始した。しかし、後発のMBCテレビ
は、全国19のローカル局と結びつく最大の民間商業テレビ放送局に発展した。1990年の放送界のリストラの結果
、民間商業テレビ放送会社のSBSテレビが1992年12月に登場してソウル首都圏向けの放送に乗り出した。また
1995年5月、2局目の地方民間テレビ放送局が釜山・大♯・光州・大田などの主要都市に設立された。
6. 今日の韓国のテレビ放送
今日の韓国には、46を数えるテレビ放送局がカラーテレビ放送を行っており、駐韓米軍将兵とその家族と在
住する英語圏外国人も好んで視聴するAFKN‐TVもカラー放送を流している。
韓国のテレビは、ウィークデーには午前6時から10時までと午後5時から翌日午前1時までの12時間にわたっ
て放送され、ウィークエンドには午前6時から深夜の1時まで19時間放送している。
1961年末、KBSテレビが最初のテレビ電波を流した当時、韓国にはわずか25,000台のテレビ受像機しかなかっ
た。ところが1973年にはテレビの登録台数は100万台にのぼり、1976年末には280万
9,000台を数え、さらに 1978年末には513万
3,000台をマークし、1982年末には700万台を越えるまでになった。
1995年2月現在のカラーテレビジョン受像機の登録台数は、KBSの集計によると1,430万台にのぼっている。それは全国各世帯に洩れなくテレビ・セットが1台以上普及していることを意味する。このほか、全国的に数百万台にのぼる白黒テレビが今もなお使用されている。
韓国のテレビのゴールデン・アワーは、午後8時から10時までの2時間である。人気連続ドラマや外国映画、
コメディとクイズ・ショー、スポーツとニュースなどの順で人気番組が放映される。しかし青少年、学生の場合
は、ミュージックショー・スポーツ・映画・コメディ・クイズ・特集ドラマ・連続ドラマと、好きな番組の順位
が違ってくる。
今やテレビジョンは、視聴者の目と耳を楽しませる強力なアピールと影響力によって、重要なマス・メディア
となっている。これまではエンターテーンメントがテレビの果たす機能の筆頭に揚げられる最大の基本要素と
なってきたが、近年は、情報伝達機能と教育機能に置き換えられるようになり、ラジオ放送や新聞など既存の
マス・メディアにとってますます強力なライバルとしてクローズ・アップされている。
今日のテレビ放送は、質量共にすばらしい成長発展を遂げたのは確かだが、まだまだ改善の余地は多い。
その一つは番組制作の分野であるが、それは直ちに改善される必要があり、次は教育テレビ番組の改善である。
テレビ放送は、衛生テレビ通信時代の到来に伴って、この先、ますます技術的発展が見通されている。さらに
ローコストのトランジスタ・テレビの大量生産は、今、熱い視線が注がれているもう一つの課題である。
1984年、韓国のテレビジョン・ネットワークは、”オリンピックを我が家の居間で”というキャッチフレーズ
の下に、ロサンゼルス・オリンピックの全容を24時間休みなく流した。このようなプロジェクトの成功は、
韓国の放送マンたちに4年後に迫っている韓民族の誇りをかけたグローバル・フェスティバルのソウル・オリンピックの放映という課題の遂行に自信間を植え付けた。KBSは、1988年の第24回ソウル・サマー・オリンピック
の折り、オリンピック報道のホストを務め、国内外放送・報道マンのすべてのニュースに成功的に対応する
用意周到な放送センターを設けて、その歴史的課題を完璧にこなしたのである。
7. ケーブル・テレビ放送
韓国でケーブル・テレビ放送が始まったのは、1970年のことである。最初は小規模の自営業者によって
行われていたが、放送装備も十分に備わらず、地勢上の妨害などで受信状態も思わしくなかった。そして
放送の内容もただ録画された連続劇やビデオなどを放送するほどのものであった。
しかし1980年末になって情報に対する国民の需要が高まり、ケーブル・テレビ放送の拡大普及が必要と
なってきた。それで政府は1991年12月、本格的にケーブル・テレビ放送の設立を決めるようになった。
ケーブル・テレビ放送は、放送設備会社、放送番組供給会社そして放送を担当する放送会社の3者によって
運営されている。放送番組の供給会社は広報処長官の許可を得て放送番組を供給する反面、設備供給会社は
情報通信部長官の指示を受けるように規定されている。
1993年、政府はニュース・スポーツ・ドラマ・映画などを含む11分野の番組を供給する21社の放送番組
供給会社と2社の設備供給会社を許可し、さらに1994年には54社の放送会社を選定して1995年3月1日を期して
本格的にケーブル・テレビ放送に乗り出した。
韓国の歴史
【古 代】
古朝鮮から三国の成立
朝鮮半島最古の王朝として中国の歴史書に見えるのは箕子朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝である。また、高麗時代の歴史書「三国遺事」には、それ以前に檀君という開国神がいたとの記録がある。これらの王朝をあわせて古朝鮮というが、檀君朝鮮と箕子朝鮮は歴史的事実というよりも一種の伝承とされている。
漢は衛氏朝鮮を攻め滅ぼし(前108年)楽浪郡ほか4群を設置、その後約400年間朝鮮半島中央部を支配した。その間に中国東北地方で大きな勢力を持ち始めたのが、高句麗族だった。高句麗は次第に朝鮮半島にも進出し、313年には楽浪郡と帯方郡を滅ぼし、漢による朝鮮半島の支配を終了させた。
北方で高句麗が活躍していた頃、朝鮮半島の南部では韓族が馬韓・弁韓・辰韓の三韓に分かれて展開していた。三韓はそれぞれ多くの小国から成立していたが、3世紀頃になると政治的統一の動きがおきた。馬韓の伯済国が3世紀から4世紀にかけて漢江流域の小国を統合(後に百済)。辰韓では4世紀後半に斯盧国が慶州地方より台頭し、他の小国を統合した(後に新羅)。弁韓地方では政治統一は実現せず、6世紀ごろまで加羅諸国といわれる小国が分立していた。
300年近く続いた中国の分裂状態を統一した隋は、598年以降高句麗への侵攻を始めた。文帝は30万人の、煬帝は100万人を超す大部隊を引き連れて数回にわたり侵攻をはかったが、武将乙支文徳(ウルチ・ムンドク)の活躍をはじめとする高句麗の激しい抵抗の前にいずれも失敗に終わった。
新羅による三国統一
三国(高句麗、新羅、百済)のうち軍事的劣勢だった新羅は隋に続いて建国された唐と同盟する道を選び、連合軍は百済・高句麗を相次いで滅ぼした。
その後唐は、百済・高句麗の旧領域の直接の支配に乗り出したが、新羅は高句麗・百済の残存勢力と共同し撃退、唐の朝鮮支配の野望を挫折させた。ここに新羅による朝鮮半島の統一が実現した。
統一新羅では仏教文化が大きく花開き、王京(現在の慶州)には皇竜寺をはじめとする数多くの寺院が
建てられた。仏教美術も大いに発展した。仏国寺(プルグクサ)の釈迦塔・多宝塔などに代表されるような独特の石塔美術、花崗岩をドーム状に築き上げてつくられた石窟寺院、石窟庵(ソックラム)の中に安置された数々の仏像などは、新羅仏教美術の中でとくに注目すべきである。
【高 麗】
後三国時代
8世紀後半以降、新羅では王位継承をめぐる内乱がくり返し起こり、各地で一揆が発生する中、豪族が勢力をもってきた。中には新しい国を建てるものが現れ、新羅・後高句麗・後百済が割拠する後三国時代となった。
高麗による半島統一
後高句麗の武将の一人王建(ワン・ゴン)は、後高句麗の王弓裔(クンイエ)を倒し、918年高麗を建国(都は開城)、その後、新羅、後百済も滅ぼし936年には朝鮮半島を統一した。
かつて高句麗の住民が多く住んでいた渤海(698年に建国)も、このころ新興の契丹族に滅ぼされ、遺民たちは高麗に移住してきた。このときはじめて朝鮮民族が一つの国家に統一された。しかしこの時点で朝鮮民族は北部の広大な領土を手放したことになり、以後朝鮮史の舞台は朝鮮半島に限られることになる。
高麗は科挙制などを導入し、中央集権的な官僚国家を建設した。11世紀後半までに国家の制度もととのい、12世紀中葉にかけて高麗王朝は最盛期をむかえた。
この時代にも仏教が隆盛し、全国に多くの寺院がつくられた。契丹の進入防止を願って『大蔵経』も彫られた(11世紀に彫られた『大蔵経』は13世紀のモンゴル侵入のとき焼失したが、その後モンゴル退散を願って再び彫られた『大蔵経』は、現在でも経板8万枚が慶尚南道海印寺に完全に保管されている)。
武人政権を樹立
官僚の中で文人たちよりも軽蔑されてきた武人たちは1170年、クーデターをおこした。その後100年間、朝鮮の歴史の中では類のない武人政権の時代が続いた。初期には権力争いなどにより、国中が混乱に陥ったが、崔氏によって政権も安定した。しかしモンゴルの侵入という新たな問題が生じた。崔氏は安全な江華島に都を移し、本土での抗戦を指揮したが、全土がモンゴル軍に蹂躙され人的・物的に多くの被害を受けた。結局武人政権は消滅し、以降高麗王室は元に服属した。
14世紀、中国には明が建国され、元が北方においやられるという国際社会の大きな変動が起こった。倭寇などの撃退で名をあげていた
李成桂(イ・ソンゲ)は親元派の命を受け遠征軍の指揮者として明に向かったが、途中で引き返し都の親元派を追放し、一挙に政権を掌握した。1388年には田制改革を断行し、高麗王朝の支持基盤を没落させた。1392年、王位につき、朝鮮朝創建した。
【朝鮮朝】
朝鮮朝の成立
漢陽(または漢城、現在のソウル)に都を定めた朝鮮朝は(李氏朝鮮)は、建国当初は雑多な軍事勢力の寄せ集めにすぎなかったが、李成桂(太祖)の息子・李芳遠(イ・バンウォン、太宗)が中央集権的な一枚岩の体制にまとめ上げ、500年以上にわたる長期政権 の基礎を固めた。
第4代国王・世宗(セジョン、存位1418〜50年 、1万ウォン札肖像の人物)の治世に、儒教を基本に据えた文治国家としての面目が備わった。朝鮮史きっての名君と讃えられる世宗の偉業の中でも、とくに大きな意義を持つのが、1446年の訓民正音の創成であった。民衆に親しみやすい文字として学者たちの助言のもとに開発したこの文字こそ、現在我々もよく知るハングルの元祖である。
安定した王朝秩序が維持されていく中で、独特の身分制度や社会習慣も徐々に形成された。支配身分である両班(ヤンバン)は本来政府の文官(東班)・武官(西班)という官僚を指したが、この時期には単に役人にとどまらず儒教と漢学の素養を備え、経済的にも一定の土地支配を行う集団として一般民衆を支配した。
16世紀末まで、ときには暴君の治世や、士禍と呼ばれる政治的混乱などが起こりつつも、おおむね平和な社会であった。
李退渓(イ・テゲ、千ウォン札の肖像の人物)・李栗谷(イ・ユルゴク、五千ウォン札の肖像の人物)といった有名な儒学者を輩出した。
壬辰・丁酉の倭乱
しかし、こうした安定を打ち破る突発的な不幸が朝鮮を襲った。壬辰・丁酉の倭乱(文禄・慶長の役、1592〜98)である。豊臣秀吉軍の前に朝鮮軍は一時は総崩れとなったが、その後、明からの救援や義兵によるゲリラ闘争などで持ちこたえ、最終的には李舜臣(イ・スンシン)将軍率いる水軍の活躍などで防衛に成功した。辛うじて戦果を収めたものの国土は全土にわたって荒廃した。続く
丁卯・丙子の胡乱(清軍の進入、1627〜37)によっても混乱は倍加され、その後の社会に暗い影を落として
行く。
17〜18世紀は、中央集権体制の動揺と新たな秩序の構築を求める社会全般の動きが並行して展開された。政府内部では官僚同士の派閥抗争(党争)が絶え間なく展開される一方で、実学思想など、前時代には見られない新思潮が登場し社会に清新な風を送り込んだ。
【近 代】
旧体制の崩壊から開国へ
1862年、慶尚道晋州で地方官の不正に抗議して民衆が蜂起、それが周辺の地方一帯に拡散するという事件が起こった(壬戌民乱)。これはそれまでの支配体制が、19世紀に入って行き詰まりを見せていたことをあらわす事件だった。また中国・日本を開国させた
西欧列強による開国要求の圧力が、この時期朝鮮に対しても次第に強まってきた。こうした状況の中で政治の
実権を握ったのが大院君 イ・ハウン(高宗の父親)だ。彼は国内政策においては両班や大商人の特権を否定し、国家の集権的な支配体制を再強化しようとし、対外政策においては鎖国政策を堅持した。
しかし大院君が失脚し、高宗の妃、閔妃(ミンビ)の一族が実権を握るに際して、日本は軍事的圧力を加えて開国を実現しようとした。1875年8月日本の軍艦雲揚号は不法に江華島と本土の間の水路に侵入し、砲撃を受けるやただちに反撃を開始した
(江華島事件)。翌年、日本に圧倒的に有利な不平等条約、日朝修好条規が結ばれ、ついに朝鮮は開国した。
甲午農民戦争
開国後、列強の圧力の下で近代化への努力はなかなか進まず、経済混乱は農民たちの生活をいっそう圧迫した。1894年全羅道古阜の農民たちが暴政を行う地方官に抗議し、チョン・ボンジュンを指導者として決起した。農民軍は次々に政府軍を打ち破り、全羅道の中心地全州も占領した。朝鮮政府は膨れ上がる農民軍を鎮圧するために清国軍隊の出動を要請するが、一方日本軍もこの混乱に乗じて朝鮮に出兵し日清戦争を開始した。日本は清国軍を打ち破り、清の勢力を朝鮮から駆逐することに成功した。朝鮮が事実上日本軍の占領下におかれるようになると、一時、政府軍への攻撃を中止していたチョン・ボンジュンの農民軍は再び蜂起した。しかし近代的な日本軍の前に農民軍は敗れた。
(甲牛農民戦争)。
朝鮮をめぐる列強の思惑
日清戦争に勝利し清の勢力を駆逐した日本だったが、三国干渉後には新たにロシアが勢力を伸ばしてきた。日本公使三浦梧楼は勢力挽回のために、反日的な王妃閔妃を殺害するという蛮行を犯したが(閔妃殺害事件)、むしろ朝鮮全土の反日感情を高めるだけだった。
日本による「支配」から「併合」へ
朝鮮をめぐる日本とロシアの対立はその後次第に強まり、1904年には日露戦争が始まった。韓国(1897年に大韓帝国という国号を採用)政府は戦時における中立を声明したが、日本は無視し、軍事的に占領した。ロシアの勢力も駆逐した日本は、その後の韓国政府に対し強制的に種々の協約を調印させ、内政支配を強化した。日露戦争終了後の1905年11月には外交権を奪い、日本の「保護国」とした(第2次日韓協約)。またその「保護権」を行使する機関として韓国統監府を設置し、初代統監として伊藤博文が着任。韓国政府は行政権、軍事権、司法権、警察権を次々に奪われた。
このような亡国の危機を、民衆はただ座視していたわけではなく、民族的な激しい抵抗を行った。反日武装闘争(義兵闘争)や、愛国啓蒙運動は全国的に盛り上がりを見せた。また、伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)のようにテロリズムにより現状を打開しようとするものも現れた。
しかしこうした運動も実らず、1910年8月、韓国は日本に併合され(韓国併合)、以後36年におよぶ植民地統治が始まった。
【日本支配下の朝鮮】
総督府の朝鮮統治
併合後統監府は旧大韓帝国政府機関と統合され、朝鮮総督府に改編された。朝鮮総督府は天皇に直属し、日本の内閣から制約を受けることなく、行政・立法・司法・統帥権など広大な権能を有した。この絶対権力者である総督には、陸軍・海軍大将が任命された。総督府統治の初期10年間は、憲兵警察制度を背景とした「武断政治」の下で、朝鮮人を日本人化しようとする同化政策や、経済収奪政策が押し進められた。
民衆による反日運動の高まり
武断政治の下、1919年に史上最大の反日独立運動(いわゆる三・一独立運動)が勃発。3月1日、ソウルのパゴダ公園で33名の「民族代表」が起草した独立宣言書が発表され、数万人の群衆が太極旗を手に「大韓独立万歳」を叫んでデモ行進をした。
その後、運動は全土に拡がり、各地で運動が展開された。
この事態に際し日本は軍隊までも導入し、徹底的な弾圧を行った。水原近くにある村、堤岩里では運動参加者を教会に集めて虐殺したうえ、教会堂に放火して焼き払った(堤岩里事件)。天安近くの並川という村の市場で起こったデモにも憲兵が発砲し、多くの犠牲者が出たが、このときデモ隊の中心になっていたのは柳寛順(ユ・グワンスン)という梨花学堂の女学生だった。彼女は逮捕され翌20年に獄死したが、その抵抗の姿は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と称えられ、今日韓国人で彼女の名を知らぬ者はいない。
「内鮮一体」の皇民化政策
三・一運動後、日本は「武断統治」政策を放棄した。「文化統治」をスローガンに掲げ、制限付きの集会・結社の自由、言論の自由を朝鮮人に対して認めたが、同化政策を進めていく方針に変わりはなかった。
1930年代に入ると同化政策はいっそう極端になり、「内鮮一体」のスローガンの下で、朝鮮人を完全に帝国臣民にしようとする皇民化政策が展開された。1937年の日中戦争勃発を機に、神社参拝「皇国臣民ノ誓詞」の斉唱が強制された。38年には朝鮮語教育を全廃、日本語の常用を強制し、40年からは朝鮮人固有の姓を日本式に変えさせる創氏改名を実施し、いっそうの日本化がはかられた。
また戦時下で生じた日本の労働力不足を補完するために、朝鮮人の強制連行が行われた。彼らは言語に絶する過酷な労働を日本本土やシベリアで強いられた。農民からの土地収奪や強制連行によって日本本土の朝鮮人は最高時200万人以上にも達した。そのうち経済上、政治上の問題などで太平洋戦争終結後も帰国できなかった人々とその子孫たちが在日朝鮮人・韓国人である。帝国主義により形成された在日朝鮮・韓国人に対する日本社会の差別、偏見は今日に至るまで根深く残っている。
【現代(大韓民国)】
植民地統治からの解放から分断へ
1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮は解放されたが、喜びもつかの間、朝鮮半島は38度線を境に、北はソビエト、南はアメリカに分割占領された。統一国家の樹立を願う民衆の願いもむなしく、分断は固定化し、1948年には南に大韓民国(大統領 李承晩 イ・スマン)、北に朝鮮民主主義人民共和国
(首相 金日成 キム・イルソン)という2つの国家が建設された。
1950年6月25日、南北の対立はついに戦争となった。朝鮮戦争(韓国では韓国動乱または625(ユギオ)動乱と呼ばれている)が勃発。戦線はローラーの如く半島を往復し、国土は荒廃した。アメリカ軍を中心とした国連軍と、中国軍も参加し、泥沼化した戦争は、朝鮮人だけでも南北合わせて126万人の死者と1,000万人もの離散家族を出したといわれる。1953年、膠着した戦線を分界線にして休戦したが、今日もなお休戦ライン沿いには厳しい軍事的対立が存在している。
戦後、最大の課題であった経済再建を実現できず、独裁による腐敗が進んだ李承晩政権に対する国民の怒りは、1960年に爆発した。学生を中心とする反政府デモがおこり政権を退陣させた(4・19学生革命)。
朴政権下での高度経済成長
その後も政局の混乱が続く中、軍事クーデター(1961年)によって政権を掌握したのが朴正煕(パク・チョンヒ)だ。朴政権は政治面では人権抑圧や民主化運動の弾圧などで国民の反発を買ったが、経済成長政策は確実に成功させた。輸出の急激な伸びにより驚異的な高度成長を実現した。「漢江の奇跡」といわれたこの経済成長はその後、80年代に至るまで続き、韓国はアジアの昇竜、NIESの
一国といわれるまでになった。
その一方で、政治の民主化は遅々として進まなかった。朴大統領暗殺事件(1979年)後、民主化を期待させるわずかな時期が訪れたが、その時もクーデターで軍人(全斗煥 チョン・ドゥファン)が政権を掌握した。
6・29宣言と民主化
1987年、民主化を望む国民の声は再び爆発、経済成長によって力をつけてきた中産階層の支持を得た民主化運動はついに、与党代表委員
盧泰愚(ノ・テウ、同年大統領に当選)に6・29民主化宣言を発表させた。この宣言発表後、急速に政治的な、民主化を実現している。
1988年には史上最多の参加国(地域)を集めてソウルオリンピックを開催、大成功のうちに終了させた。オリンピックの成功により名実ともに世界の中の韓国として認められ、国際的に重要な活躍を期待される国となった。
韓国でのマナー
礼節の国といわれる韓国。実際に旅をしてみると、みんなあけっぴろげで、
「礼節の・・・」という堅苦しいイメージはどこかに消えてしまいそうです。
旅行者ということで、気さくに声をかけてくれるし、何か困っていると、次の瞬間にはだれかが
助け船を出してくれる・・・。
しかし、いくら旅行者といえども最低限のマナーは守りたいもの。
そうすれば、旅の中でより韓国を深く知ることができるでしょう。
儒教がマナーの基本
- 韓国が礼節の国といわれる理由は、儒教が基本のしきたりが今でも脈々と息づいているからかもしれません。
韓国でいちばん重要視されるのは「目下の者が目上の人をうやまう」ということです。
このルールは今もってきちんと守られています。たとえば、ビジネスマンが上司に接する態度、バスや地下鉄の中で若者が
お年寄りに接する態度などにでています。一歩引き下がり、きちんと尊敬の念を表します。
注意したいマナー
- ところ変われば品変わる。日本では何でもない自然な態度が、韓国でだと誤解をまねくようになることがいくつかあります。
日本人だから自国民のマナーで行きたいところですが、これも韓国旅行の経験の一部ということで、理解しておきましょう。
タバコについて
目上の人の前で自分からタバコを吸うことは厳禁。たとえそれが自分の親の前であってもダメです。だから、
相手が明らかに目上である場合にはタバコを慎み、同じくらいの年である場合でも、一言断ってから吸うようにしましょう。
しかしその反面、タバコをすすめられたら断らずに喜んで受け取る習慣もあります(もともと吸わない人は別だが)。
喫煙者なら素直にお礼を言って受け取っていいのです。「自分のがありますから結構です」なんて、遠慮をしない方がいいでしょう。
それから、女性(特に若い人)の喫煙は、なかば白い目で見られるます。親しい人と一緒のときはともかく、
初めて会った人の前では一応遠慮していたほうがいいでしょう。
食事について
アンニョンハシムニカ!
韓国では食事をするときにはあまり細かい約束ごとはありません。食欲を最大限に発揮して、
おいしく食事をすることが一番のマナーです。ただ、目上の人が同席のときは、その人よりも先に料理に箸をつけてはいけません。
あと、韓国の家庭で両親にこれだけは気をつけなさいと教えられてきたことや、
韓国と日本の食事作法の違いを紹介いたします。
器を持ってはいけません。
最初に、汁物に口をつけます。その後は、好きな物から食べてかまいません。日本では茶碗などを
手にとって食べますが、韓国ではご飯や汁の入った器を、手に取ったり、直接口につけたりするのは、
行儀が悪いこととされています。
箸を使ってはいけません。
ご飯を食べるときも、汁物を飲むときもスッカラというスプーンを使います。箸は、キムチなど
他のおかずをつまむときに使うだけです。箸を使うと、水が外に流れるからと言って嫌い、汁物の
具を食べるときもスッカラを使います。
汁物の中に、ご飯を入れる。
韓国では、カルビッタンなどの汁物の中にご飯を入れて食べます。日本では、ご飯にみそ汁をかけると
猫まんまといって行儀が悪いことのようですが、、。韓国に行ったらぜひ試して下さい。マシイッソヨ(おいしいです。)
お酒について
女の人が男の人にお酒をついではいけません。
韓国は儒教の教えが厳しい国です。女性が男性に対してお酒をついでいいのは、父親、主人など身内の人にだけです。
日本の感覚で男性にお酌をしていると、変な目で見られますので気を付けて下さい。
もちろん女同士でしたらかまいません。
お酒のつぎたしはいけません。
お酒を飲んでいるときは、コップがからになってからつぎます。
つぎたしをしてはいけません。
お酒をつぐときは、肘に手をかけます。
お酒は、左手を右肘にかけ、必ず右手で注ぎます。儒教の伝統が残っているため、
目上の人の前では飲酒を遠慮します。勧められて飲む場合は、少し顔を横に向けて
飲むのが礼儀とされています。
韓国の教育
1. 教育機関の歩み
韓国人は例外なく教育を非常に重視する。それは立身出世の唯一のコースとして、
「科挙」という官吏登用試験が行われてきた一千余年の伝統に基づく意識構造である。
このような伝統は今日においてプラスに生かされ、めざましい経済成長を支えた
高い教育水準と技術者の輩出に寄与している。
今を去る1623年前の昔の372年、高句麗ではすでに国立大学と言える「太学」を
設立し、国政を取り仕切る人材の養成に務めた。儒学を基本とするこのような
教育機関は、統一新羅から高麗時代へと続く仏教全盛時代には見る影もないくらい
さびれはしたものの、朝鮮王朝時代には、国立中央大学といえる成均館をはじめ
東西南北の学堂が設けられていた。
さらに地方には、府・牧・郡・県にそれぞれ90・70・50・30人ずつの儒生が勉学に励む
郷校が335か所ももうけられ、安東の陶山書院をはじめ全国各地に680余ののぼる
書院があり、学者たちの研究院の役割を果たしていた。そのほか、全国の自然部落
の地主両班(貴族)邸宅の表舎廊で田舎書生が子供たちに読み書きの手ほどきをする
書堂(寺小屋)まで合わせると、全国いたるところ学校のないところはなかったと
言える。
19世紀末、朝鮮王朝政府が開花に踏み切ると同時に1885年6月、米国宣教師
アペンセラーが培材学堂を開校し、翌年の5月には米国宣教師スクラントン女史が
梨花学堂を開校するや、政府も同年6月育英公院を開校し、1899年3月には
京城医学校を設立した。これに刺激されて、日本の近代的な軍事力の脅威を押し返し
国権を守り抜くには、同じく近代的な学問と教育を施す以外にはないと覚えた志士
閔泳徽は、1906年5月、徽文学校を設立した。
また厳妃は淑明女学校を設立し、同年8月には李用翌が普成学校を設立して近代的
教育を施すと同時に民族独立精神の鼓吹に務めた。
その後、さらに敬新・養正・中央などの男子中学校と貞信・進明・培花などの女学校が
設立され、日本の植民統治下にあった35年の間や三一独立運動の当時など、民族の
アイデンティティを取り戻すための抗日独立運動の産室となるなど、日本による
皇民化施策に粘り強く抵抗した。
今日、学術研究と科学・公共教育に関する政策の立案・施行の責任を負う中央政府
機関としては教育部がある。特別市・広域市、道には教育委員会が設けられており、
代議機関として機能している。その下部機関として郡と市に教育庁が設けられて
管轄区域内の初・中・高校などの教育活動を指導・監督している。そして政府は
基本的政策問題のアドバイスと補助金の交付をおこなっている。
教育予算は政府が管理しており、教育部の予算規模は毎年増加の一路をたどり、
1995年度のGNP対比3.84%、政府予算対比22.8%を占めている。
6年間の初等教育は1953年以来、無償の義務教育制になっており、1992年にはまず
農村地方で中学校3年の課程にまで拡大された。しかしこれは近い将来、全国レベルに
まで裾野が広げられることになるはずである。
就学前教育、すなわち幼稚園教育の重要性に対する認識は、近年とみに高まり、
1994年末現在、全国8,910の幼稚園で51万100人の幼児(3歳〜5歳)たちが教育を
受けている。政府は幼稚園施設増設のための5か年計画を立てて、1998年まで
幼稚園年齢に達するすべての幼児の62%までが幼稚園で教育を受けるように計画を
進めている。
2. 教育制度
韓国の教育制度は、教育年限6年の初等学校と中学校3年・高校3年そして4年の大学と
修士コースの大学院と博士コースがあり、さらに2年制の初級大学(短大)と専門大学
に分かれている。
1994年現在、全国の初等学校は、5,900校と10万8,700クラス、児童数は409万9,395人、
教師は13万9,096人である。初等教育のカリキュラムは、道徳・国語・社会・数学・科学・
体育・音楽・美術・工作など9科目が基本となっている。1年生と2年生のときにはこれら
カリキュラムの中のいくつかを組み合わせて授業を受け、3年生からは工作科目などが
追加される。初等学校の教師は、4年制の教育大学卒業が義務づけられている。
中学校の進学率は、ここ25年の間急激に伸びて1969年の61.8%から1994年には98.8%
をマークしている。なお学校数は1994年現在、2,645校に生徒は250万8,657人、教師は
8万9,719人である。中学校のカリキュラムは基本と必須科目12、多数の選択科目と
科以外の活動などである。選択科目の中には卒業後の就業に備えて技術と実業コースが
含まれている。
中学入試は1969年に廃止され、今は住居地域別に学群を決めて教育庁が個人別に
進学対象学校を割り当てている。このような学群別抽選入学は、中学校の偏差値を
縮めて平準化を図るとともに、育ち盛り・遊び盛りの少年少女たちが入学試験の
プレッシャーによって悩むことなく、伸び伸びと健やかに成長するように図り、同時に、
最寄りの中学校に通わせることによって交通渋滞の中での通学の苦労を減らすといった
さまざまなメリットを計算に入れている。
しかし、高校入学の場合は、1974年の制度改正によって、いったん政府施行の学力資格
試験にパスしたあと、学群別抽選で進学対象校が割り当てられるようになっている。
これまた高校の質的平準化を図ると同時に通学の苦労と交通量の減少を狙った施策であり、
同制度の施行の結果、高校進学率もかつてなかったほど高くなった。1971年の高校進学率
は69.4%であったが、1992年には95.6%にまで伸びている。
1994年現在、全国の高等学校は、1,784校であり、学生数206万825人、教師は9万7,064人
である。高等学校1,784校の内、実業系は738に達する。
実業系高校志願者は、中学の課程を終えたあと、各市・道で行われる予備試験に
合格しなければならない。実業高校のカリキュラムは、一般科目40%と実業科目60%の
割合になっており、実業科目では理論と実技に同等のゥェートが置かれている。
韓国の高等教育機関は多種・多様である。4年制の大学コース(医科と歯科は6年制)、
2年制の初級専門(実業)大学、4年制の教育大学、そして2〜4年制の看護大学・神学大学などが
それである。その他放送通信大学、開放大学などがある。
1994年現在、全国の高等教育機関数は314か所であり、その中4年制の大学は157校で学生数は
156万3,095人、初級専門大学は135校に50万6,806人の大学生が教育を受けている。これら大学
の8割は私立大学である。
このほか修士・博士コースを指導している大学院は、1992年現在、335校の3,418学科で
9万6,577人が研究に携わっている。
文民時代の到来に伴い、韓国の大学も以前とは全く違った変貌を遂げた。政府が大学の自律化
に踏み切って以来、国公立大学の総・学長の任用権は政府の手を離れて教授会に委ねられた。
そして教授の任用権、学生選抜試験はもとより、大学の登録金(授業料)の策定、学期制の運営、
卒業資格の考査・施行などもほとんど全てが大学当局に任された。
さらに大学の教養科目規定を含む全ての講義科目の決定も大学の自律に任され、学生たちの
自治活動にも最大の自由が与えられた。
その結果、一部では一頃行き過ぎと自由の乱用など放縦ぶりが見かけられた。しかし、自発的な
反省と見直しが図られて、騷乱から安定へ、放縦から自主規制へと、方向転換が行われ、近年
望ましい方向に向かって進んでいる。
大学入試は、高校内申成績(40%以上)に修学能力試験と大学別本考査(自律実施)をかけあわせた
方式を94年から実施している。
3. 非正規教育
韓国における非正規教育は、今日、二通りにわけられている。
一つは正規教育を十分に受けられなかった青少年や成年のための教育プログラムであり、
もう一つはビジネスマンまたはその他学生以外の人たちのための短期技術教育コース、あるいは
再教育コースである。
初期の段階での非正規教育プログラムは、文盲退治運動をはじめ、学齢超過児童に対する教育
コース、農業技術指導のための公開講座、成人教育コースなどにゥェートが置かれていた。
しかし、近年になってから、社会の急激な変貌発展に対応してより多様な内容を盛り込むことに
なった。今日、それは技能・技術のレベル・アップを図るための教育・訓練にゥェートが
置き換えられている。
主要な非正規教育機関としては公民学校と職業学校がある。公民学校は中学・高校への進学または
再入学を望む少年少女たちのために、正規の初等教育または中学教育に相当する教科目を1〜3年に
わたって教育するコースである。職業学校は、初等学校または中学校卒業あるいはそれに相当する
学力所持者を対象にして1〜3年間にわたって就業に必要な職業訓練を行うものである。
このほか、放送通信大学は、勤労青少年と成人のため、家庭学・経営学・農学・教育学・行政学などの
分野の大学コースを4年間にわたって実施する制度である。毎日、ラジオとテレビで行われる
放送講義(30分間)を聴講して所定の成績を取得した人に正規大学卒業者と同等の学士の学位を
与える制度であり、高校コースの放送通信教育講座もある。
正規教育機関以外の非正規教育には、このほか政府機関や民間団体などが施行しているいろいろな
訓練研修プログラムがある。それには会社務めの人たちの職務遂行能力を高めるためのコースを
はじめ、余暇善用のための趣味コースなど、いろいろなものがある。農村地方では地域社会教育事業
の一部として青少年教室や主婦教室などが設けられており、もっぱら地元のの学校の教室または
村の村民会館ホールを利用して夜間に行われる。
大手新聞の本社がある大都市では、新聞社が主催する公開文化講座が人気である。文化講座の
プログラムには、外国語をはじめ歴史・文化・文学など教養講座と書道・カメラ・盆栽・生け花・
エアロビクス・工芸・園芸・料理・碁・ギター・マンドリン・歌謡などの趣味に至るまで、幅広く
行われており、受講者も主婦と子供からシルバー・エージ層とビジネスマンや学生など、社会の
各界各層の人たちの参加によって賑わっている。
4. 特殊教育
教育法は、各特別市・広域市・道ごとに身体障害者の特殊教育のために一つ以上の特殊学校を
設けるように規定している。身障者に対する社会の認識は今のところまだ十分とはいえないが、
初等・中等レベルの教育を実施するための特殊学校の数は、近年、政府の努力によって著しく
増加している。1971年に、36校・346クラスに僅か4,668人が教育を受けていたが、1981年には
61校・754クラス・9,787人に増え、さらに1994年現在では106校で2万1,251人が修学中であり、
盲人学校12・聾唖学校20・肢体不自由学校14・遅進児学校57・情緒障害者学校3に分かれ、それぞれ
専門教師によって教育をうけている。
教育部は年若い身体障害者たちを対象に、一般教養科目のほかに、身障者の肉体条件に
マッチした特殊職業訓練を実施して、彼らが生産活動に携わることができるように手伝っている。
なお、政府は毎年、身障者たちのための技能コンテスト大会を開くと同時に職業訓練も
進めている。
1988年のソゥル・オリンピックに次いで開かれたパラリンピックは、身障者に対する国民の
理解と関心を深めることに大きく役立った。
韓国のスポーツ
1. 概観
外向的・活動的であるとともに陽気な民族でもある韓国人は、仕事に打ち込む時と同じような
活気と集中力を持ってスポーツ打ち込んでいる。そして子供たちは幼い頃から体を鍛え、個人
あるいはチーム・メンバーとして、すぐれた競技成果をあげるよう励まされている。
スポーツ競技の観戦は、大都市の住民にとってはまたとないレジャーの一つとなっており、
田舎の人たちやスタンドにいけない人たちは、スポーツ中継のテレビ画面に釘付けになる。
一方、ハイキング・登山・釣り・ハンティング・ウォータースポーツなどに加えて、今年には
パラグライティングーやハングライティングーなども流行している。
1972年に発足した国民体育振興財団は、スポーツ活動の拡大と競技水準の向上を図るさまざまな
活動を支援してきたうえ、1982年には、各種スポーツの振興と教育を総括する体育部が、政府の
中央機構の一つに新設され、1986年のアジア競技大会を始め、1988年の第24回ソウル・オリンピック
大会の成功的開催のための総括支援の役割を果たした。その後、1991年に体育青少年部と改称され
今は文化体育部に統合されている。
1989年に新設されたソウル・オリンピック体育振興財団は国民体育振興基金の募金・管理、競技水準
の向上に尽くしている。
大韓体育会(KASA)は、韓国のアマチュア。スポーツ全般を取り仕切っているが、その傘下には45種目
の各スポーツ競技団体が加盟している。
2. 競技場施設
ソウルの韓江の南、54万5千平方メートルの広大な敷地に設けられたソウル・スポーツ・コンプレックスには
高麗青磁をかたとったユニークな設計の10万席のメーン・スタジアムをはじめ、2万席のバスケットボール、
ボクシング用の室内体育館、5万席の野球場、5千席の室内プール、8千席の学生体育館と陸上競技練習場がある。ソウル・スポーツ・コンプレックスは金浦国際空港から30キロの距離にある。
チャムシル(蚕室)総合運動場とも呼ばれるソウル・スポーツ・コンプレックスから東へ4キロ離れたところに
オリンピック公園と選手村・記者村があった。掘を掘って土城を築いた2000年前の要塞の跡は、白済人の英知と
美意識を窺わせるに足りるものである。険しい山の頂上に山城を築くことができないとき、平野地帯で侵略を
阻止するには、大河を控えた野原に堀を掘り巡らして水を引き入れ、掘り出した土で急傾斜の土城を堤のように
巡らすに限る。夢村土城は、扶余の土城のルーツであり、さら日本では福岡太宰府の水城となり、日本各地の
野城の堀のルーツとなったのである。
2000年の年月が流れ去ったあと、白済の古城の跡150万平方メートルはオリンピック公園に姿を変えて、弓矢・
刀槍を捨てた全世界の若人がスポーツと文化の交流のために寄り集まったのである。
オリンピック公園内には、6千席の自転車競技場、4千席の重量挙げ競技場と2万64席の体操、フェンシング、
重量挙げ用の3つの体育館、1万5千の観覧席と18面のテニス・コートを備えたテニス競技場と1万席の
超モダーンな水泳競技場のほか、オリンピック会館・ソウル体育高校・韓国体育大学にスポーツ博物館と
オリンピック・プラザが設けられている。
このオリンピック公園の南側の道路を隔てて、1万3千人の参加選手団と6千人の報道陣が泊まった選手村と
記者村は、今は122棟の高層アパート団地となっている。
このほか、ソウルの北東・仏岩山の麓の緑濃い木立ちの中には、泰陵選手村と呼ばれる7.2ヘクタールの広大な
敷地にスケートリンク・室内プールや最新設備を誇る国際射撃場とレスリング・ボクシング・重量挙げ用の
室内体育館がある。この泰陵キャンプには、外国から来たコーチや選手のためのヘルス・センターや医務室・
体力測定室を始め578人の選手が泊まる寮とコーチ用の宿舎があり、花郎アーチェリー競技場も最寄りにある。
カヌー競技は韓江をさかのぼったソウルの郊外のその名も美しい美沙里にあり、、2万5千人が観戦・応援する
ことができる。
馬術競技は、オリンピック公園南方16キロの衛星都市・果川にあるソウル大公園馬術競技場とソウル西北郊外の
元堂総合馬術競技場で行われた。
このほか、漢陽大学校体育館・奨忠体育館・ソウル大学校体育館・東大門運動場と城南市の尚武体育館・城南
公設運動場それに水原の室内体育館で、予選その他の競技が行われ、ヨット競技は、釜山の水営湾ヨット競技場
で行われた。
3. 国際競技の実績
韓国は、サッカー・バスケットボール・アーチェリー・卓球・ホッケー・ハンドボール・レスリング・
ボクシングなどの国際競技で目覚しい活躍ぶりを示している。
日本は、1912年の第5回ストックホルム大会初出場では、ノー・メダルだったが、1920年の第7回アントワープ
大会ではテニスで銀メダルを、第9回(1928)アムステルダム大会では織田幹雄が三段跳びで金メダルを、水泳
200メートルでも金メダルを勝ち取った。1932年の第10回ロサンゼルス大会当時、韓国人(勿論日本を代表していたが)マラソンの金恩培が韓国人としては初出場して6位にとどまったが、次の1936年の第10回ベルリン大会
では孫基禎選手がマラソンで優勝、南昇龍選手は3位に入賞した。
韓国は、建国後19、最初の1948年の第14回ロンドン大会のボクシングと重量挙げで銅メダルを獲得して以来、
毎回、選手を出場させたが、いつも銀メダル・銅メダルにとどまり、念願の金メダルは1976年の第21回
モントリオール大会で梁正模選手がレスリングで金メダルを手にするまで待つほかなかった。同大会では、
銀メダル1個、銅メダル4個を追加して参加国100か国のうち、19位にランクされた。
1984年のロサンゼルス大会では、金メダル6個・銀メダル6個・銅メダル7個を勝ち取って、140か国のうち10位
の成績を収めた。
一方、アジア競技大会では、1982年ニューデリー大会で、中国・日本についで3位だったが1986年のソウル大会
では金メダル1個の差で中国に首位を譲った。しかし、日本を振り切り、2位にのし上がった。それに1990年の
中国・北京でのアジア大会では、金メダル54個を取り、中国についで2位になり、続いて1994年の日本・広島
アジア大会で金メダル63個を勝ち取る好成績を収めた。2002年のアジア大会は韓国・釜山で開かれる予定である。
韓国は数多くの国際競技のホストを務めている。1978年には、第42回国際射撃選手権大会を主催したが、
同大会は世界の71か国から1300人の選手が参加したグローバルな大会であり、大会場の泰陵国際射撃場は、
世界5大射撃場の一つに指折られている。
この他、1979年の第8回世界女子バスケットボール選手権大会や、1984年の第2回アジア水泳選手権大会、
1985年の第33回世界アーチェリー選手権大会と第21回ワールド・カップ・ボーリング選手権大会を主催し、
1987年にも数多い国際競技大会をプレオリンピック・イベントとして主催した。
1971年以来、毎年、韓国が主催している大統領カップ・サッカー・トーナメントは、アジア諸国のサッカー
技量のレベル・アップと参加諸国の友好親善と相互理解に大いに寄与してきたが、近年は、アジアだけに
限らずヨーロッパやラテン・アメリカとアフリカも参加している。
1986年のワールド・カップ・サッカー・トーナメントには、イラクと一緒に韓国がアジア地域を代表して
メキシコ大会に出場したが、同トーナメントには世界の強豪24か国が出場した。その後も韓国サッカーは、
1990年と1994年のワールド・カップ・サッカーに3回連続アジア地域を代表して出場するなど、韓国サッカー
の技量が世界的に認められ、2002年のワールド・カップ大会は韓国と日本で共同主催されることになった。
1988年のソウル・オリンピックでは、金メダル12個・銀メダル10個・銅メダル11個の予想をはるかに
上回るメダルを勝ち取って160か国のうち総合4位の成績を収めた。
韓国が伝統的に得意とするアーチェリー部門で金水寧選手が個人で金メダルを取り、男子団体・女子団体でも
金メダルを勝ち取った。卓球では劉南__が男子ダブルスで、女子ダブルスでも金メダルを取った。さらに
ボクシング・柔道・レスリングでそれぞれ2つずつの金メダルを取り、女子ハンドボールでも金メダルを取って
合計12個の金メダルを勝ち取った。
さらに1992年の第25回バルセロナ・オリンピックでは、マラソンの黄永祚選手が栄光の金メダルを勝ち取り、
1936年のベルリン・オリンピックでの孫基禎選手の栄光以来、実に56年ぶりに韓国マラソンがオリンピックを
制覇する快挙で全国民を熱狂させた。韓国は相変わらずアーチェリーとレスリング・射撃・バドミントンで
2つずつと柔道・重量挙げ・女子ハンドボールで1個ずつの金メダルを勝ち取ってトータル12個の成果を上げ、
さらに銀メダル5個と銅メダル12個を取って総計29個で総合7位をマークしたが、バルセロナ・オリンピック
最大の収穫は、黄永祚選手のマラソン優勝であった。
さらに同年2月のフランス・アルベールビルの冬季オリンピックで金KiHunのショートトラック500メートル
金メダルに次いで、ショートトラック5,000メートル・リレーでも金KiHun・李準鎬・宋在根・牟志修の四人が
金メダルを勝ち取り、さらに金倫万がスピード・スケート1,000メートルで銀メダル、李準鎬が
ショートトラック1,000メートルで銀メダルを付け加え,史上初めて10位に進出した。
韓国は、1994年2月のノルウェー・リレハンメルの冬季オリンピックでも金KiHunが男子1,000メートル・
ショートトラックで金メダルを取って冬季五輪3回連続の金メダリストになり、菜智薫も男子500メートル・
ショートトラックで金メダルを、1,000メートルでは銀メダル、金潤美はショートトラック女子3,000メートル・リレーで元恵敬・金昭希・全利卿と共に、さらに女子1,000メートル・ショートトラックでも全利卿が
金メダル、金昭希が銅メダルを取って、韓国はリレハンメルで金4・銀1・銅1の成績で当初の予想の10位を
上回る総合6位にのし上がり、日本とともにアジア最高の地位を占めたがメダルが一部分に偏中している
ことは解決しなければならない問題となっている。
4. 国内のスポーツ大会
毎年10月の全国体育大会では、全国から集まる大都市と道の代表選手が27種目に渡って争い合う。大会は
毎年、開催地を変えてソウル・釜山・大邱・光州・仁川・全州・大田・春川など主要都市で順番どおりに
開催されるが、それはスポーツの技量向上だけに限らず、地域間の理解親善と地方民俗文化の交流発展にも
大いに役立っている。
初等学校・中学校クラスの全国少年体育大会も毎年、開催地を変えて順番どおりに行われ、全国から7,000
余人の少年・少女が参加する。正月には、スピード・スケーティングとフィギュアースケーティングとスキー、
アイスーホッケーとバイアスロン競技を含めた全国冬季体育大会も毎年、開催されている。
そのほか、身体障害者のための体育大会が1981年以来毎年開かれている。1993年の第13回大会には1,700人の
選手が出場して彼等の特別な技量を発揮する。
5. ソウル・オリンピックの意義と成果
西暦前776年から始まったとされるギリシアの古代オリンピックは、西暦393年の第293回大会を最後に
1169年にわたる輝かしい伝統が断ち切られた。
それは、西暦392年、ローマのテオドシウス皇帝が、異教禁止令を発布した際、ギリシア神話にちなむ
このオリンピック・フェスティバルまで禁止したからである。
その後、1500余年の間、ヨーロッパの世界では、キリスト教信仰だけが至上の価値と見なされ、肉体
の健康は食欲・性欲に結びつく卑賎なもの、劣悪なものと蔑まれてきた。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といったユヴェナリスの名言は、ほご同然に見捨てられ、
肉体を最大限に虐げる苦行・節制を通じて、初めて人間は救援を得ることができると見たのである。
もともと同等の価値を持つべき精神と肉体が、古代オリンピックの終焉とともに肉体は罪深いものと
として蔑まれ、その後、近代オリンピックが始まる時まで精神偏重の時代が続いた。
したがって、風俗ドラマ(ラ・ファン・ド・シェクル)のヒットとともにペシミズム・デカダンス・
オカルテぃズムが麻痺していた1896年、古代オリンピック発祥の地・ギリシアのアテネ市で開幕した
第1回近代オリンピックは、1500年もの間、奴隷のように蔑まれ卑しめられてきた肉体・健康の価値が
新しく見直され、復権を果たす契機となった。これによって人間の肉体と精神は、久しぶりにバランスと
ハーモニーを取り戻すことになったのである。
そのような意味で第1回アテネ・オリンピックは、国際スポーツ・フェスティバルの発祥というレベルを
はるかに越えて、人間の精神と肉体のバランス、ハーモニーの回復、孤立・断絶から共存・交流への転換、
人間の人間的なあり方を問う契機となり、人類文化発展の新しいマイル・ストーンとなったのである。
しかしながら、1964、東京オリンピックが開かれる前までは、オリンピックは欧米諸国のスポーツ・
セレモニーに過ぎなかった。すなわち、アジア圏から数か国が参加していたものの、それはものの数にも
入らないものであった。
日本の戦後が終わったとされる東京オリンピックを契機として、近代オリンピックは初めて人種・国籍・
イデオロギー・社会経済制度の差を問わないグローバルなスポーツ・フェスティバルとなったのである。
当時、開発途上国にあったアジア諸国は、アジア最初のオリンピックに参加した際、戦災によって廃虚
同然となっていた東京の変貌・発展ぶりに目を見張った。そして、オリンピックにより身近なものとして
とらえることができた。
その後、日本が引き続き目覚しい経済成長を持続させ、さまざまな分野で欧米先進諸国と首位の座を
争うまでになったのを目の当たりにして、アジア諸国は、いつかわれわれもオリンピックを主催しようと
誓ったのである。
しかし、その後かなりの間、アジア諸国の国民にとってオリンピックは選手・役員やマスコミのスポーツ
担当者たちが抱く関心に限られていた。ところが1980年のモスクワ大会と、さらに1984年のロサンゼルス
大会は、スポーツと縁の薄い人たちの関心までも引き付けるものとなった。
第22・23回オリンピックは、周知のとおり、オリンピック・ムーブメントの目的であるIOC憲章の中の
第2項のスポーツを通じての友好と相互理解の増進による、より良くより平和な世界の建設、第3項の
オリンピックの原則を世界に普及することによる国際親善の創造と発展に、もろに違反するものとなった。
それは米ソ両超大国の政治・経済・イデオロギー上の利害がからみ、ボイコットの応酬となって人類を
失望させた。
西側67か国のボイコットによる最初の片肺オリンピックのモスクワ大会当時、すでに第23回ロス大会は
ソ連がボイコットの音頭を取るに違いないと取り沙汰されていた矢先の1981年9月30日、ソウルが第24回
サマーオリンピックのホスト・シティに決まった。
このニュースは、全世界のスポーツマンは言うまでもなく、政治・経済・軍事・文化など各分野の専門家を
はじめ一般国民までを驚愕させるに足りるものだった。
東西対決の最前線ともいえる韓国、国土を南北に引き裂かれ、同族相食む血腥い戦争まで繰り広げた韓国、
新しくスタートした第五共和国政府の基礎固めも済んでいない韓国が、「韓江の奇跡」とうたわれる経済成長
を成し遂げてはいたものの、政情不安と累積債務にインフレまで重なっていた韓国の首都・ソウルが、
はたしてオリンピックを成功的に主催することができるだろうか、という疑問が後を絶たず、成功を危ぶむ
憂慮の声も高かった。
しかし、その後7年の間、韓国人は一丸となってオリンピックに燃えた。モスクワ大会についでロサンゼルス
大会も片肺の大会になったが、これに伴いオリンピックに寄せる韓国人の熱意は信仰のレベルまで高められた。
第22・23回と続く2回の大会が、ボイコットの応酬による片肺のオリンピックであっただけに、次の第24回
ソウル・オリンピックは、何としてでも東西の対決にピリオドを打つものにし、ひいては民族の悲願である
南北統一を実現させる契機にしようとするナショナル・コンセンサスが成立したのである。
東西イデオロギーの対決を和合に導く主役は、その対決による最大の被害者・韓国人をおいてはありえない
という悲壮な決意が、民族の平和統一に向ける意志を強化し、ソウル・オリンピックこそその契機に
なるだろうと確信したのであった。
今世紀の初めには、東西の列強が勢力の角逐の場として花火を散らした韓半島、第二次世界大戦後は東西
両大ブロックの冷戦対決の犧牲となって国土は南北に引き裂かれ、ついには国連軍と共産軍が悽惨な戦闘を
繰り広げた韓半島、人類のジェノサイドをもたらす第三次世界大戦の導火線になるとまで危ぶまれていた
危険地帯の韓半島に、今や東西ブロックの和合と世界平和の実現を予告する平和の鐘が鳴り渡り、平和の
シンボルのハトの大群がオリンピック史上最大といわれる160か国の国旗がはためく青空高く天駆けたので
ある。
ヨーロッパの古代文明発祥の地・ギリシア半島で開かれた第一回アテネ・オリンピック大会が、肉体の復権
を実現させ、霊肉のバランスとハーモニーをもたらしたとすれば、東洋における五千年の文化伝統を誇る
韓半島の首都ソウルで開かれた第24回ソウル・オリンピックは、人類を戦争の危機から平和へと導き、東西
ブロックの対決を和合へ向かわせ、分断韓国を統一に結び付け、西洋偏重から東洋・アジアの復権をもたらす
人類の祝福されたフェスティバルとなったのである。
1988年9月17日、平和・和合・繁栄をモットーに揚げて開かれたソウル・オリンピック大会は160か国から
13,000人の選手と役員が集まって開かれたオリンピック史上最大のスポーツ・イベントであった。
16日間続いたこの大会が華々しい成功を成し遂げることができたのは26,000人のボランティア、自ら進んで
交通整理や通訳に当たった多くの市民たち、各国の選手を熱狂的に応援した318万人の韓国人観客、多くの
外国観客を民泊に招待した親切な市民たちなど、国内では政府・市民が老若男女を問わずこの大会を成功に
導くため全力をつくしたのである。一方、真の世界平和と和合を願う世界人類の念願と合まって純粋な
スポーツ祝祭としてのオリンピックの精神を復活させようとする国際オリンピック委員会の並々ならぬ
努力の結果もあった。
ソウル・オリンピックを契機に、韓国は中国・ソ連をはじめ東ヨロッパの共産圏諸国との交流・協力の道を
開いたがそれは人類の平和と繁栄の増進に大いに寄与したと言える。韓国はこのようなオリンピックの意義と
成果をよりグローバルな目でとらえ、韓国だけに限らず全世界の国々が共有する成果とするため全力を
尽くしている。