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韓国の国土と人口


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 韓国の歴史

【古  代】
古朝鮮から三国の成立

 朝鮮半島最古の王朝として中国の歴史書に見えるのは箕子朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝である。また、高麗時代の歴史書「三国遺事」には、それ以前に檀君という開国神がいたとの記録がある。これらの王朝をあわせて古朝鮮というが、檀君朝鮮と箕子朝鮮は歴史的事実というよりも一種の伝承とされている。
 漢は衛氏朝鮮を攻め滅ぼし(前108年)楽浪郡ほか4群を設置、その後約400年間朝鮮半島中央部を支配した。その間に中国東北地方で大きな勢力を持ち始めたのが、高句麗族だった。高句麗は次第に朝鮮半島にも進出し、313年には楽浪郡と帯方郡を滅ぼし、漢による朝鮮半島の支配を終了させた。
 北方で高句麗が活躍していた頃、朝鮮半島の南部では韓族が馬韓・弁韓・辰韓の三韓に分かれて展開していた。三韓はそれぞれ多くの小国から成立していたが、3世紀頃になると政治的統一の動きがおきた。馬韓の伯済国が3世紀から4世紀にかけて漢江流域の小国を統合(後に百済)。辰韓では4世紀後半に斯盧国が慶州地方より台頭し、他の小国を統合した(後に新羅)。弁韓地方では政治統一は実現せず、6世紀ごろまで加羅諸国といわれる小国が分立していた。
 300年近く続いた中国の分裂状態を統一した隋は、598年以降高句麗への侵攻を始めた。文帝は30万人の、煬帝は100万人を超す大部隊を引き連れて数回にわたり侵攻をはかったが、武将乙支文徳(ウルチ・ムンドク)の活躍をはじめとする高句麗の激しい抵抗の前にいずれも失敗に終わった。

新羅による三国統一

 三国(高句麗、新羅、百済)のうち軍事的劣勢だった新羅は隋に続いて建国された唐と同盟する道を選び、連合軍は百済・高句麗を相次いで滅ぼした。
 その後唐は、百済・高句麗の旧領域の直接の支配に乗り出したが、新羅は高句麗・百済の残存勢力と共同し撃退、唐の朝鮮支配の野望を挫折させた。ここに新羅による朝鮮半島の統一が実現した。
 統一新羅では仏教文化が大きく花開き、王京(現在の慶州)には皇竜寺をはじめとする数多くの寺院が 建てられた。仏教美術も大いに発展した。仏国寺(プルグクサ)の釈迦塔・多宝塔などに代表されるような独特の石塔美術、花崗岩をドーム状に築き上げてつくられた石窟寺院、石窟庵(ソックラム)の中に安置された数々の仏像などは、新羅仏教美術の中でとくに注目すべきである。



【高  麗】
後三国時代

 8世紀後半以降、新羅では王位継承をめぐる内乱がくり返し起こり、各地で一揆が発生する中、豪族が勢力をもってきた。中には新しい国を建てるものが現れ、新羅・後高句麗・後百済が割拠する後三国時代となった。

高麗による半島統一

 後高句麗の武将の一人王建(ワン・ゴン)は、後高句麗の王弓裔(クンイエ)を倒し、918年高麗を建国(都は開城)、その後、新羅、後百済も滅ぼし936年には朝鮮半島を統一した。
 かつて高句麗の住民が多く住んでいた渤海(698年に建国)も、このころ新興の契丹族に滅ぼされ、遺民たちは高麗に移住してきた。このときはじめて朝鮮民族が一つの国家に統一された。しかしこの時点で朝鮮民族は北部の広大な領土を手放したことになり、以後朝鮮史の舞台は朝鮮半島に限られることになる。
 高麗は科挙制などを導入し、中央集権的な官僚国家を建設した。11世紀後半までに国家の制度もととのい、12世紀中葉にかけて高麗王朝は最盛期をむかえた。
 この時代にも仏教が隆盛し、全国に多くの寺院がつくられた。契丹の進入防止を願って『大蔵経』も彫られた(11世紀に彫られた『大蔵経』は13世紀のモンゴル侵入のとき焼失したが、その後モンゴル退散を願って再び彫られた『大蔵経』は、現在でも経板8万枚が慶尚南道海印寺に完全に保管されている)。

武人政権を樹立

 官僚の中で文人たちよりも軽蔑されてきた武人たちは1170年、クーデターをおこした。その後100年間、朝鮮の歴史の中では類のない武人政権の時代が続いた。初期には権力争いなどにより、国中が混乱に陥ったが、崔氏によって政権も安定した。しかしモンゴルの侵入という新たな問題が生じた。崔氏は安全な江華島に都を移し、本土での抗戦を指揮したが、全土がモンゴル軍に蹂躙され人的・物的に多くの被害を受けた。結局武人政権は消滅し、以降高麗王室は元に服属した。
 14世紀、中国には明が建国され、元が北方においやられるという国際社会の大きな変動が起こった。倭寇などの撃退で名をあげていた 李成桂(イ・ソンゲ)は親元派の命を受け遠征軍の指揮者として明に向かったが、途中で引き返し都の親元派を追放し、一挙に政権を掌握した。1388年には田制改革を断行し、高麗王朝の支持基盤を没落させた。1392年、王位につき、朝鮮朝創建した。



【朝鮮朝】
朝鮮朝の成立

 漢陽(または漢城、現在のソウル)に都を定めた朝鮮朝は(李氏朝鮮)は、建国当初は雑多な軍事勢力の寄せ集めにすぎなかったが、李成桂(太祖)の息子・李芳遠(イ・バンウォン、太宗)が中央集権的な一枚岩の体制にまとめ上げ、500年以上にわたる長期政権 の基礎を固めた。
 第4代国王・世宗(セジョン、存位1418〜50年 、1万ウォン札肖像の人物)の治世に、儒教を基本に据えた文治国家としての面目が備わった。朝鮮史きっての名君と讃えられる世宗の偉業の中でも、とくに大きな意義を持つのが、1446年の訓民正音の創成であった。民衆に親しみやすい文字として学者たちの助言のもとに開発したこの文字こそ、現在我々もよく知るハングルの元祖である。
 安定した王朝秩序が維持されていく中で、独特の身分制度や社会習慣も徐々に形成された。支配身分である両班(ヤンバン)は本来政府の文官(東班)・武官(西班)という官僚を指したが、この時期には単に役人にとどまらず儒教と漢学の素養を備え、経済的にも一定の土地支配を行う集団として一般民衆を支配した。
 16世紀末まで、ときには暴君の治世や、士禍と呼ばれる政治的混乱などが起こりつつも、おおむね平和な社会であった。 李退渓(イ・テゲ、千ウォン札の肖像の人物)・李栗谷(イ・ユルゴク、五千ウォン札の肖像の人物)といった有名な儒学者を輩出した。

壬辰・丁酉の倭乱

 しかし、こうした安定を打ち破る突発的な不幸が朝鮮を襲った。壬辰・丁酉の倭乱(文禄・慶長の役、1592〜98)である。豊臣秀吉軍の前に朝鮮軍は一時は総崩れとなったが、その後、明からの救援や義兵によるゲリラ闘争などで持ちこたえ、最終的には李舜臣(イ・スンシン)将軍率いる水軍の活躍などで防衛に成功した。辛うじて戦果を収めたものの国土は全土にわたって荒廃した。続く 丁卯・丙子の胡乱(清軍の進入、1627〜37)によっても混乱は倍加され、その後の社会に暗い影を落として 行く。
 17〜18世紀は、中央集権体制の動揺と新たな秩序の構築を求める社会全般の動きが並行して展開された。政府内部では官僚同士の派閥抗争(党争)が絶え間なく展開される一方で、実学思想など、前時代には見られない新思潮が登場し社会に清新な風を送り込んだ。



【近  代】
旧体制の崩壊から開国へ

 1862年、慶尚道晋州で地方官の不正に抗議して民衆が蜂起、それが周辺の地方一帯に拡散するという事件が起こった(壬戌民乱)。これはそれまでの支配体制が、19世紀に入って行き詰まりを見せていたことをあらわす事件だった。また中国・日本を開国させた 西欧列強による開国要求の圧力が、この時期朝鮮に対しても次第に強まってきた。こうした状況の中で政治の 実権を握ったのが大院君 イ・ハウン(高宗の父親)だ。彼は国内政策においては両班や大商人の特権を否定し、国家の集権的な支配体制を再強化しようとし、対外政策においては鎖国政策を堅持した。
 しかし大院君が失脚し、高宗の妃、閔妃(ミンビ)の一族が実権を握るに際して、日本は軍事的圧力を加えて開国を実現しようとした。1875年8月日本の軍艦雲揚号は不法に江華島と本土の間の水路に侵入し、砲撃を受けるやただちに反撃を開始した (江華島事件)。翌年、日本に圧倒的に有利な不平等条約、日朝修好条規が結ばれ、ついに朝鮮は開国した。

甲午農民戦争

開国後、列強の圧力の下で近代化への努力はなかなか進まず、経済混乱は農民たちの生活をいっそう圧迫した。1894年全羅道古阜の農民たちが暴政を行う地方官に抗議し、チョン・ボンジュンを指導者として決起した。農民軍は次々に政府軍を打ち破り、全羅道の中心地全州も占領した。朝鮮政府は膨れ上がる農民軍を鎮圧するために清国軍隊の出動を要請するが、一方日本軍もこの混乱に乗じて朝鮮に出兵し日清戦争を開始した。日本は清国軍を打ち破り、清の勢力を朝鮮から駆逐することに成功した。朝鮮が事実上日本軍の占領下におかれるようになると、一時、政府軍への攻撃を中止していたチョン・ボンジュンの農民軍は再び蜂起した。しかし近代的な日本軍の前に農民軍は敗れた。 (甲牛農民戦争)

朝鮮をめぐる列強の思惑

 日清戦争に勝利し清の勢力を駆逐した日本だったが、三国干渉後には新たにロシアが勢力を伸ばしてきた。日本公使三浦梧楼は勢力挽回のために、反日的な王妃閔妃を殺害するという蛮行を犯したが(閔妃殺害事件)、むしろ朝鮮全土の反日感情を高めるだけだった。

日本による「支配」から「併合」へ

 朝鮮をめぐる日本とロシアの対立はその後次第に強まり、1904年には日露戦争が始まった。韓国(1897年に大韓帝国という国号を採用)政府は戦時における中立を声明したが、日本は無視し、軍事的に占領した。ロシアの勢力も駆逐した日本は、その後の韓国政府に対し強制的に種々の協約を調印させ、内政支配を強化した。日露戦争終了後の1905年11月には外交権を奪い、日本の「保護国」とした(第2次日韓協約)。またその「保護権」を行使する機関として韓国統監府を設置し、初代統監として伊藤博文が着任。韓国政府は行政権、軍事権、司法権、警察権を次々に奪われた。
 このような亡国の危機を、民衆はただ座視していたわけではなく、民族的な激しい抵抗を行った。反日武装闘争(義兵闘争)や、愛国啓蒙運動は全国的に盛り上がりを見せた。また、伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)のようにテロリズムにより現状を打開しようとするものも現れた。
しかしこうした運動も実らず、1910年8月、韓国は日本に併合され(韓国併合)、以後36年におよぶ植民地統治が始まった。



【日本支配下の朝鮮】
総督府の朝鮮統治

 併合後統監府は旧大韓帝国政府機関と統合され、朝鮮総督府に改編された。朝鮮総督府は天皇に直属し、日本の内閣から制約を受けることなく、行政・立法・司法・統帥権など広大な権能を有した。この絶対権力者である総督には、陸軍・海軍大将が任命された。総督府統治の初期10年間は、憲兵警察制度を背景とした「武断政治」の下で、朝鮮人を日本人化しようとする同化政策や、経済収奪政策が押し進められた。

民衆による反日運動の高まり

武断政治の下、1919年に史上最大の反日独立運動(いわゆる三・一独立運動)が勃発。3月1日、ソウルのパゴダ公園で33名の「民族代表」が起草した独立宣言書が発表され、数万人の群衆が太極旗を手に「大韓独立万歳」を叫んでデモ行進をした。 その後、運動は全土に拡がり、各地で運動が展開された。
 この事態に際し日本は軍隊までも導入し、徹底的な弾圧を行った。水原近くにある村、堤岩里では運動参加者を教会に集めて虐殺したうえ、教会堂に放火して焼き払った(堤岩里事件)。天安近くの並川という村の市場で起こったデモにも憲兵が発砲し、多くの犠牲者が出たが、このときデモ隊の中心になっていたのは柳寛順(ユ・グワンスン)という梨花学堂の女学生だった。彼女は逮捕され翌20年に獄死したが、その抵抗の姿は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と称えられ、今日韓国人で彼女の名を知らぬ者はいない。

「内鮮一体」の皇民化政策

三・一運動後、日本は「武断統治」政策を放棄した。「文化統治」をスローガンに掲げ、制限付きの集会・結社の自由、言論の自由を朝鮮人に対して認めたが、同化政策を進めていく方針に変わりはなかった。
 1930年代に入ると同化政策はいっそう極端になり、「内鮮一体」のスローガンの下で、朝鮮人を完全に帝国臣民にしようとする皇民化政策が展開された。1937年の日中戦争勃発を機に、神社参拝「皇国臣民ノ誓詞」の斉唱が強制された。38年には朝鮮語教育を全廃、日本語の常用を強制し、40年からは朝鮮人固有の姓を日本式に変えさせる創氏改名を実施し、いっそうの日本化がはかられた。
 また戦時下で生じた日本の労働力不足を補完するために、朝鮮人の強制連行が行われた。彼らは言語に絶する過酷な労働を日本本土やシベリアで強いられた。農民からの土地収奪や強制連行によって日本本土の朝鮮人は最高時200万人以上にも達した。そのうち経済上、政治上の問題などで太平洋戦争終結後も帰国できなかった人々とその子孫たちが在日朝鮮人・韓国人である。帝国主義により形成された在日朝鮮・韓国人に対する日本社会の差別、偏見は今日に至るまで根深く残っている。



【現代(大韓民国)】
植民地統治からの解放から分断へ

 1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮は解放されたが、喜びもつかの間、朝鮮半島は38度線を境に、北はソビエト、南はアメリカに分割占領された。統一国家の樹立を願う民衆の願いもむなしく、分断は固定化し、1948年には南に大韓民国(大統領 李承晩 イ・スマン)、北に朝鮮民主主義人民共和国 (首相 金日成 キム・イルソン)という2つの国家が建設された。
 1950年6月25日、南北の対立はついに戦争となった。朝鮮戦争(韓国では韓国動乱または625(ユギオ)動乱と呼ばれている)が勃発。戦線はローラーの如く半島を往復し、国土は荒廃した。アメリカ軍を中心とした国連軍と、中国軍も参加し、泥沼化した戦争は、朝鮮人だけでも南北合わせて126万人の死者と1,000万人もの離散家族を出したといわれる。1953年、膠着した戦線を分界線にして休戦したが、今日もなお休戦ライン沿いには厳しい軍事的対立が存在している。
 戦後、最大の課題であった経済再建を実現できず、独裁による腐敗が進んだ李承晩政権に対する国民の怒りは、1960年に爆発した。学生を中心とする反政府デモがおこり政権を退陣させた(4・19学生革命)

朴政権下での高度経済成長

 その後も政局の混乱が続く中、軍事クーデター(1961年)によって政権を掌握したのが朴正煕(パク・チョンヒ)だ。朴政権は政治面では人権抑圧や民主化運動の弾圧などで国民の反発を買ったが、経済成長政策は確実に成功させた。輸出の急激な伸びにより驚異的な高度成長を実現した。「漢江の奇跡」といわれたこの経済成長はその後、80年代に至るまで続き、韓国はアジアの昇竜、NIESの 一国といわれるまでになった。
 その一方で、政治の民主化は遅々として進まなかった。朴大統領暗殺事件(1979年)後、民主化を期待させるわずかな時期が訪れたが、その時もクーデターで軍人(全斗煥 チョン・ドゥファン)が政権を掌握した。

6・29宣言と民主化

 1987年、民主化を望む国民の声は再び爆発、経済成長によって力をつけてきた中産階層の支持を得た民主化運動はついに、与党代表委員 盧泰愚(ノ・テウ、同年大統領に当選)に6・29民主化宣言を発表させた。この宣言発表後、急速に政治的な、民主化を実現している。
 1988年には史上最多の参加国(地域)を集めてソウルオリンピックを開催、大成功のうちに終了させた。オリンピックの成功により名実ともに世界の中の韓国として認められ、国際的に重要な活躍を期待される国となった。


 韓国でのマナー

 礼節の国といわれる韓国。実際に旅をしてみると、みんなあけっぴろげで、 「礼節の・・・」という堅苦しいイメージはどこかに消えてしまいそうです。 旅行者ということで、気さくに声をかけてくれるし、何か困っていると、次の瞬間にはだれかが 助け船を出してくれる・・・。
 しかし、いくら旅行者といえども最低限のマナーは守りたいもの。 そうすれば、旅の中でより韓国を深く知ることができるでしょう。


儒教がマナーの基本
 韓国が礼節の国といわれる理由は、儒教が基本のしきたりが今でも脈々と息づいているからかもしれません。
 韓国でいちばん重要視されるのは「目下の者が目上の人をうやまう」ということです。 このルールは今もってきちんと守られています。たとえば、ビジネスマンが上司に接する態度、バスや地下鉄の中で若者が お年寄りに接する態度などにでています。一歩引き下がり、きちんと尊敬の念を表します。


注意したいマナー
 ところ変われば品変わる。日本では何でもない自然な態度が、韓国でだと誤解をまねくようになることがいくつかあります。 日本人だから自国民のマナーで行きたいところですが、これも韓国旅行の経験の一部ということで、理解しておきましょう。

タバコについて

 目上の人の前で自分からタバコを吸うことは厳禁。たとえそれが自分の親の前であってもダメです。だから、 相手が明らかに目上である場合にはタバコを慎み、同じくらいの年である場合でも、一言断ってから吸うようにしましょう。
 しかしその反面、タバコをすすめられたら断らずに喜んで受け取る習慣もあります(もともと吸わない人は別だが)。 喫煙者なら素直にお礼を言って受け取っていいのです。「自分のがありますから結構です」なんて、遠慮をしない方がいいでしょう。
 それから、女性(特に若い人)の喫煙は、なかば白い目で見られるます。親しい人と一緒のときはともかく、 初めて会った人の前では一応遠慮していたほうがいいでしょう。

食事について

アンニョンハシムニカ!
 韓国では食事をするときにはあまり細かい約束ごとはありません。食欲を最大限に発揮して、 おいしく食事をすることが一番のマナーです。ただ、目上の人が同席のときは、その人よりも先に料理に箸をつけてはいけません。 あと、韓国の家庭で両親にこれだけは気をつけなさいと教えられてきたことや、 韓国と日本の食事作法の違いを紹介いたします。

器を持ってはいけません。
 最初に、汁物に口をつけます。その後は、好きな物から食べてかまいません。日本では茶碗などを 手にとって食べますが、韓国ではご飯や汁の入った器を、手に取ったり、直接口につけたりするのは、 行儀が悪いこととされています。

箸を使ってはいけません。
 ご飯を食べるときも、汁物を飲むときもスッカラというスプーンを使います。箸は、キムチなど 他のおかずをつまむときに使うだけです。箸を使うと、水が外に流れるからと言って嫌い、汁物の 具を食べるときもスッカラを使います。

汁物の中に、ご飯を入れる。
 韓国では、カルビッタンなどの汁物の中にご飯を入れて食べます。日本では、ご飯にみそ汁をかけると 猫まんまといって行儀が悪いことのようですが、、。韓国に行ったらぜひ試して下さい。マシイッソヨ(おいしいです。)

お酒について

女の人が男の人にお酒をついではいけません。
 韓国は儒教の教えが厳しい国です。女性が男性に対してお酒をついでいいのは、父親、主人など身内の人にだけです。 日本の感覚で男性にお酌をしていると、変な目で見られますので気を付けて下さい。 もちろん女同士でしたらかまいません。

お酒のつぎたしはいけません。
 お酒を飲んでいるときは、コップがからになってからつぎます。 つぎたしをしてはいけません。

お酒をつぐときは、肘に手をかけます。
 お酒は、左手を右肘にかけ、必ず右手で注ぎます。儒教の伝統が残っているため、 目上の人の前では飲酒を遠慮します。勧められて飲む場合は、少し顔を横に向けて 飲むのが礼儀とされています。


 韓国の教育


1. 教育機関の歩み

2. 教育制度

3. 非正規教育

4. 特殊教育


 韓国のスポーツ


1. 概観

2. 競技場施設

3. 国際競技の実績

4. 国内のスポーツ大会

5. ソウル・オリンピックの意義と成果


 


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